13|グラスの歴史 日本のグラス製造その6
江戸と共に九州薩摩でもグラスの製造がおこなわれておりました、薩摩ガラスは、弘化3年(1846)に加賀久の従弟で江戸・芝源助町の四本亀次郎を、薩摩藩主・島津斎興がガラス工場を開設するにあたり招いたのが始まりになります。
その後、1851年薩摩藩主に就いた島津斉彬が西欧列強に対抗し近代化を推し進める「集成館事業」の一つとして始めました。
透明なクリスタルガラスに色ガラスを被(き)せ、カットすることで「ぼかし」の美しさを堪能できるグラスが作られましたが、斉彬の死後、1863年の薩英戦争で集成館がイギリス軍の艦砲射撃で焼失し、藩政の建て直しのため工場は縮小され、ガラス職人の多くは 江戸に移住して行きました、その後1877年の西南戦争前後に技術は途絶えてしまいしました。
1985年に復刻されて現在にいたります。
薩摩切子と江戸切子の違いについては、別途お伝えいたしますが、
江戸切子は庶民の食器として、幅広く生活の中で使われ江戸時代から現在に至るまで、絶えることなく伝統の技で造り続けられています。一方の薩摩切子は、大名たちの装飾品として使われ、大名への贈り物や篤姫の江戸幕府第13代将軍徳川家定への徳川家への嫁入りの品ともなり、その特徴は色被硝子を使いぼかし技法で造られています。
安政6年(1859)、日米修好通商条約締結により横浜、神戸などの開港とともに、西洋文明が輸入されるようになった、なかでも石油ランプは夜を明るく照らし急速に普及していった。当時の舶来品のうち、石油ランプと石油が最高の輸入額を記録していることからも、その普及率の高さを知ることができる。それまで風鈴や玉などを製造していたガラス業者は、輸入に頼っている石油ランプを見よう見まねで製造するようになり、明治維新直前の慶応2年(1866)には、大阪の久米庄兵衛、伊藤庄三郎らがランプの製法を研究、苦心して造るようになり、東京でも加賀久、上総屋などホヤを製造できるようになり、やがて油壺やバーナーなども国産化できるようになっていきました。
復刻の薩摩切子
明治時代の石油ランプ
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