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39|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について9

皆さん、こんにちは🎵先週はお話の前に母校明治に熱くなり過ぎ失礼しました()

幾つになっても母校愛が強いです♪

 

東洋ガラスの創始者島田孫市は、三菱財閥の岩崎ファミリーとビジネスを進めたり、大阪に工場を造り、他の工場も誘致して大阪を東京と並ぶ、日本のガラス産業発展の地とすべく活躍しておりました。1927年(昭和2年)大阪市北区で講演中に脳溢血で倒れ66歳で死去、息子が継ぎ、1928年(昭和3年)米国より最新鋭の全自動押型機を導入し、タンブラーの製造を開始。最新鋭の重油燃焼タンク炉と合わせ、高品位な商品を量産していた。1931年(昭和6年)鉛クリスタルガラスの量産化に成功。当時、市場にほとんど出回っておらず、日本での草分けとなる。戦前には、食料品缶詰代用の容器としてガラス製コップの製造を開始、当時生産統制下で不足していたブリキの代用として大量に使用される。終戦後、占領軍向けの照明ガラス生産や硝子瓶の製造を開始した。1953(昭和28)東洋ガラスとなり、総合容器メーカーである東洋製缶グループの一員となりました。               

 

東洋ガラスは、硝子瓶とハウスウェアー部門として食器を製造しており、1962(昭和37)オートメーションクラス製造機H-28マシンを導入。1957年(昭和32年)に日本では佐々木ガラスが最初に導入した、ものに続き日本のグラスの供給過多へと続くことになります。

その後、次々と新鋭の製造マシンを入れていきました、1969年(昭和44年)には、プレスダブル成形機を導入。一度に2個の製品がプレス成形できる新鋭機で、安価で高品質の皿鉢が大量供給可能になりました、また1978年(昭和53年)には、TBMマシン導入。ガラスを金型にほとんど押し付けずにタンブラーを成形できることで、生地肌の美しい高品位グラスの生産が可能になる。

技術進歩と大量生産が、明治から続く全国各地の手造り硝子工場を結果的に潰していくことになります。時代の流れと捉えるかちょっとノスタルジックに考えるかは、皆さんのご判断にお任せいたします。

 

世界で初めてチタンを使ったクリスタルの食器を開発発売など、技術的にも東洋製缶グループの力を借り、チャレンジをしてきましたが、ライバルである佐々木硝子、石塚硝子に続く三番手と業界で言われてきました、その後、倒産した業界ナンバーワンの佐々木硝子と合併していくことになりました、歴史の不思議さと縁を感じます。

 

次回は、「東洋ガラス株式会社 ハウスウエア部門」と「佐々木硝子株式会社」が統合。

「東洋佐々木ガラス株式会社」についてお話していきます。

 

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