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45|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について15

皆さん、こんにちは🎵

このところの温かさは異常ですね、2月に20度と4月中旬並みの温度で、地球温暖化を通り越して沸騰時代になってきたと感じています。

 

HOYAクリスタルの創業は大手の中では遅く、1941(昭和16)ですが日本のグラス製造や影響力はとても大きく、後に創業のクリスタル事業からの撤退や社外取締役の導入、大幅やリストラと新しいチャレンジと、従来の日本企業にない発想で世界のHOYAになって行きました。

 

第二次大戦中は、軍需産業として光学ガラスレンズを製造しておりましたが、終戦後マーケットが消滅したため、クリスタルグラスの製造を始めました。1947(昭和22)にはシャンデリア(照明)の製造を開始し、海外輸出にも力を入れていた、特にアメリカに輸出され大きな売り上げにつながった、この背景には従来シャンデリアの生産地であったチェコが共産圏となり、アメリカがチェコに替わる生産地として日本に目を付け、HOYAが代替として輸出を担う形となった。この結果1949(昭和24)ごろには全社売上高の約90%が米国むけ輸出(シャンデリア)を占めるようになりました、

その後は、HOYAとしては苦難の道でした、1955(昭和30)ごろの経済不況により業績が悪化。翌年に創業家の社長だった山中茂氏は心労により脳溢血に倒れ、事業経営の遂行が難しい状況に陥った。後任社長には娘婿の鈴木哲夫氏(当時32歳)が就任し、山中家はHOYAの経営から一歩遠ざかる形となった。

鈴木氏は、当時の日本としては珍しい合理的な経営手法を導入し、1958(昭和33)にはHOYAはクリスタルガラスに次ぐ新事業として、メガネ眼鏡事業に参入、その後東証2部に上場しました、またメガネの販売ルートを問屋経由でなく、HOYAは直販化によってシェアを確保できると考えていたが、直販化のためのコストが想定の6倍かかったことでHOYAの業績は悪化。日本経済の不況もあって、1966(昭和41)に売上高42億円・最終赤字7億円を計上して無配に転落した。そして社内でクーデターが発生し、鈴木哲夫は社長を解任された。その後鈴木氏個人で株を購入、業績も直販化が進み業績が向上したため、1970(昭和45)に社長の復帰し、さらに経営の多角化を進めて行った。

光学ガラス、コンタクトレンズ、半導体設計用のマスクブランクなど多角化を進め、さらに各商品群の市場占有率が高く、小さい市場でもトップシェアの製品を数多く抱える事業構成を達成し、この結果、1990(平成2) HOYAは売上高1,233億円に対し、営業利益154億円を確保し、営業利益率12.5%という日本の製造業では異例の高い水準を維持した。

 

1994(平成6)に鈴木氏は、経営改革を決意「事業の整理」、次に「資産の圧縮」、最後に「組織のスリム化(リストラ)」を実施し、経営効率を高める方針に舵を切った。事業面では、HOYAは競争力を失いつつあったクリスタルガラス事業を中心に、子会社の再編を実施し資産面では、事業縮小によって不要不急となった土地・建物を売却してバランスシートを圧縮した。組織面では、余剰人員の整理を実行し、人員の1/3削減や、55歳以上の選択定年制を導入した。これらの改革を1994年から2年にわたって実施し、一般的な日本企業と比較すると早いタイミングで「リストラ」を完了した。この結果、2000年代以降の事業のグローバル化を推進するための布石になりました。

 

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