35|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について5
皆さん、こんにちは🎵
グラスが昭和30年代から機械によるオートメーションで生産されるようになり、爆発的な生産量を支えたのは、まさしく日本が政府の所得倍増計画、3種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)が家庭に普及して、給料も上がり生活の豊かさが実感できる、高度成長期の日本でした。
日本の人口を大きく上回る、グラスの生産を可能にしたもう一つの要因があります、大量生産大量消費の時代に伴って生まれた、マスメディアの広告と景品・販促品です。グラスにメーカーロゴやブランドロゴを印刷して、消費者に大々的に無料で配ったり、飲食店にビールや日本酒の販促用としてグラスをタダで膨大な量を配っていました。
キャラクターのついたグラスや、ロゴの入ったグラス貰っていましたよね、今でも安い居酒屋に行くとビールメーカーのついたグラスを見かけますね、メーカーから見ても安く大量に同じものを配れるのはメリットでもあり、各社がこぞってグラスを景品・販促品として使っていました。
これが又日本のグラス業界をゆがめることに繋がります‼
佐々木硝子の話からちょっとそれてしまって恐縮ですが、硝子屋親父の独り言ということでご容赦ください、時代背景と業界動向とリンクする話です。
1960~70~2000年代前半まで(私の感覚的な時代感です)のグラス生産量の半分以上は、これらのタダで配るグラスと言われています、その結果グラス、とくにコップはただでもらうものという習慣が根付いてしまい、お金を出して買うグラスは、特別なものしか買わないという流れになってしまいました。特別なグラスとは、クリスタルグラスや機械で造れないような薄いグラス、形状の変わったグラス、特殊な印刷加工や複合的な加工をしたグラス、当時は色のついたグラスたちです。いわゆる普通にコップと言われるグラスの販売が難しい時代でした、そんな難しい時代だったのでグラスに江戸切子を入れたり、機械では生産できない多色プリントしたり、デザインを工夫したり、アンバー色のグラスを作ったり、陶器の徳利やすき焼き鍋とセットを組んで販売したりして、私のおやじたちは頑張っていました、また、後でお話するコップでは無いグラス、お皿や小鉢、花瓶などを製造する工場やメーカーが出てきて、日本のグラスマーケットの新しい分野を切り開き、世界に発信していくことになります。
ここらで佐々木硝子の話に戻ります(笑)
千葉の八千代に工場を作ってから、徐々に墨田の東京工場からオートメーションの製造装置を移転させ、クリスタルグラスの製造に東京工場を特化させていきました。
このクリスタルグラス製造が佐々木硝子を大きく飛躍させる第2章に繋がります。
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