38|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について8
皆さん、こんにちは🎵
プロフィールにもありますが、私は明治大学付属明治高校から明治大学商学部で勉学(笑)に励んでおりました、明大明治(我々の通称)は当時、男子校でお茶の水駿河台に会ったことから、下町の商家の息子連中が多く、特に木場の材木問屋や下町の料理屋の息子連中が多かったです、2008年(平成20年)に駿河台から調布に移設し男女共学になりました、何と偏差値は現在72となっており、我々の同期の子供立ちの中で、親と同じ明大明治に進んだ子供たちは残念ながらおりません(苦笑)
我々の自慢は校歌が、明大と同じことでした、高校時代から白雲なびく駿河台~おお明治~と高らかに歌っておりました、それは受験を経て入ってくる学生へ我々がリーダーとして、明治の質実剛健などの校風や校歌、応援歌などを伝えていくことになります。
なんでこのタイミングで、母校明治の話になったかと言いますと、昨日12月3日がラグビー大学対抗戦早稲田戦に、気持ちよく勝利したことからです🎵対抗戦グループは現在は帝京の一強時代ですが、伝統の明治早稲田戦は、毎年12月の第一日曜に行われ、日本のラグビーの試合の中で有数の観客の多さです、熱い応援からの熱い熱闘が毎年繰り広げられます。ライバル同士の熱い戦い、昨日は気持ちよく大学の同期の連中と祝杯を上げました🎵
前書きが、ついつい熱くなり長くなってしまいました(失礼)
前回まで、日本のガラス食器メーカーのリーダーとして、業界をリードして来た佐々木硝子の誕生から、飛躍そして放漫経営からの倒産について、お話してきました。
今回からは、2002年(平成14年)と佐々木硝子株式会社と経営統合して、東洋佐々木ガラス株式会社になった、東洋ガラスについてお話していきます。
東洋ガラスの創始者の島田孫市は、日本の文明開化期の時代1878年(明治11年)明治政府が設立した、近代ガラス工業の礎となった「品川硝子製造所」に入局する。英国人技師J.スピートより最新の舶来吹きのガラス食器生産や板ガラス製造の指導を受け、後に全国へ広めることに努力。島田は生産技能だけでなく、当時秘伝の原料の調合法も学び、基礎知識を培った。
1888年(明治21年)4月大阪府西成郡川崎村(現・大阪市北区西天満)に島田硝子製造所
を創業、「舶来吹き」の技術を生かした食器やランプを生産、大変優れた品質で、業績を伸ばす。1893年(明治26年)、日本硝子の工場を買収して、着色ガラスや透明焼き付けガラスを開発して業績を伸ばし、1902年(明治35年)についに日本で初めて板ガラスの生産に成功した。その後、三菱財閥の岩崎弥之助の次男・俊弥の知遇を得て、これからは板ガラス事業が日本で重要な産業になると考えた岩崎と、板ガラスの生産技術を国内に確立したいという孫市の双方の考えの一致から、1906年(明治39年)12月岩崎を社長とし、孫市を副社長とする大阪島田硝子製造合資会社を設立、本格的な板ガラスの生産を開始した。しかし意見の違いから岩崎と袂を分かち、岩崎は尼崎に板ガラス専門の旭硝子を設立]、島田は1908年(明治41年)大阪市内の北同心町で再びガラス食器の生産を始め、1909年(明治42年)6月には西成郡鷺洲町海老江(現・大阪市福島区海老江)に、最新技術を取り入れた新工場を建設。特に窯は当時の最先端で、ドイツのものと比較しても劣らず、国内で特許を取得した、その後順調に業績を伸ばし、ガラス製造の発展に貢献した功績により藍綬褒章を受章した。
続く
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