12|グラスの歴史 日本のグラス製造その5
おはようございます♪
木本硝子のある東京台東区は祭りやイベントが盛んなエリアです、5/20.21は三社祭、
5/26.27.28はモノづくりで街を元気にする台東モノマチ、そして6/10.11は鳥越祭りと
下町の連中はこの時期のために一年働いて、祭りでめっちゃ弾けます。ぜひお出かけください。
江戸時代後期の天保5年(1839年)に、日本橋大伝馬町の硝子問屋加賀屋久兵衛、通称「加賀久」が金剛砂でガラス面に彫刻し、切子細工を施したことから江戸切子発祥と呼ばれております。
もう一人、江戸ガラスの祖と呼ばれているのは、上総屋の在原留三郎は、文政2年(1819)に浅草・南元町(現在の台東区蔵前あたりで木本硝子の側になります)に工場を設け、かんざしや風鈴などを製造・販売していました。さらに文政11年(1828)から天保5年(1834)まで長崎で修行を積み、再び江戸に帰ってかんざしや風鈴などの製造を続けました。
江戸において、ガラス生地を製造・加工していたのは加賀久と上総屋くらいで、一般には種屋といわれ、他のガラス製造業者はその種屋から餅種としてガラスを購入し、これを再溶解して製品化していた。幕末当時、主なガラス製造業者は、福田八十二(浅草総泉寺門前)、伊勢屋儀作(芝神明町新道)、小山清兵衛(芝神明前三島町)、大隈源助(浅草茅町2丁目)であります、いずれも現在の東京浅草あたりの下町で、木本硝子のルーツの場所にも近いです。
また、江戸ではアイヌ玉も造られていて、アイヌの女性には玉類が欠かせない装身具として重宝されていたので、江戸で造られたトンボ玉などが数多く蝦夷地(現在の北海道)に渡ったといわれており、浅草清島町・松前藩の屋敷には王仁というトンボ玉つくりの名人が召抱えられていたという。江戸時代に、ビードロ師またはギャマン師と呼ばれたガラス製造業者は、その製造技術を高く評価され、工場の設立、原料の購入などに格別の便宜を与えられ、 なかには扶持を与えられ帯刀を許される者もありました。
江戸時代が東京でガラス文化と製造が華やかに行われていたことが偲ばれます。
江戸時代 グラス製造図
アイヌ玉とアイヌの装束
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