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50|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について20

皆さん、こんにちは🎵

今回はグラスメーカーではありませんが、日本のグラスマーケットを大きく飛躍拡大させた、カメイガラスについてお話していきたいと思います。

 

カメイガラスはメーカーでは無く、業態としては木本硝子と同じ問屋業です。メーカーから仕入れて販売していると同時に、自社でデザインした商品を委託生産して販売、世界各国から輸入して、全国各地の食器問屋・グラス問屋・専門店・飲食店用の業務卸会社・ギフト問屋・カタログギフト各社・現金問屋など、独自のデザインと積極的な営業スタイルで、グラスマーケットの新しい世界を作り上げていきました、残念ながら放漫経営(私見ですが)で、1997(平成9)に倒産廃業に至り、その余波で国内外数多くのグラスメーカーが、倒産廃業の他、大きな痛手を受け工場の統廃合や経営権移譲などが行われました。

 

詳しい資料も見つからず、私が業界に入る前のことなので一部不正確なところもありますが、カメイガラス全盛期の198090年代(昭和55~平成初期頃)からのお話をしていきます。グラスの歴史で前述いたしましたが、大阪天満宮近く現在の与力町・同心界隈では、江戸時代に長崎のガラス商人播磨屋久兵衛が、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、グラスなどを作っていたと言われています。その後、与力町・同心界隈を中心にガラス工場が増えていき、大阪のガラス産業は急速に成長しました、その業者の数は東京を凌いでいたとの記述もあります。その後、プラスチックや国内外の価格競争に押されて、隆盛を誇った大阪のガラス産業も衰退し、今では「大阪ガラス発祥之地」の碑が残る、天満界隈からグラス工場は姿を消してしまいました。

そんなグラス工場がたくさんあったところで、問屋としてカメイガラスが創業して、仕入れ先のグラス工場を増やし、業容を拡大して行きました。

 

カメイガラスの功績として、今も称えられるのは薩摩切子の復刻です。1980(昭和55)に、当時のカメイガラス社長亀井節治社長の指揮下で、薩南戦争で途絶えていた薩摩切子の復刻に、由利精助氏宇良武一氏などの大阪の切子職人たちが関わり1985(昭和60)に復刻させました。薩摩切子は、幻の切子といわれ、製造されていたのは幕末から明治初頭のたった数十年間です。当時の製法や加工方法などの記述も無く、また現在も残っているものは数百点ほどしかありません。東京のサントリー美術館で一部がみられる程度です。

原材料の入手、不純物を取り除く精製、グラスを溶かすための燃料原材料、高温で溶かすための技術、それらを造るために高温に耐えられる設備、様々な道具、グラスに色を付けるための金属化学反応の知識、色の具現化、分厚く造り上げた色被グラスをカットする技術(厚いグラスは光を通しにくくカットが難しい)などなど、現存の薩摩切子を見ても江戸時代の僅か数10年で、どうやって開発して造り上げたのか疑問だらけです。

 

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