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  • March 22, 2024

    49|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について19

    皆さん、こんにちは🎵 先日の日曜日は春のお彼岸の入りということで、墓参りに朝早くから行って来ました、木本家、お袋の実家、嫁さんの実家と3か所のお墓に花を手向け、線香をあげて家内安全・商売繁盛を見守ってくださいとお願いしてきました。   今回は、既に無くなっている、若しくは形態を変えているグラスメーカーのお話をしたいと思います。手元にデータなども無く、私の記憶をつなぎ合わせていきますので、実際とは違っていることもあり得ますが、時代の流れということでご容赦ください。   先ずは、群馬県渋川市で操業しておりました、長谷川硝子です。こちらはプレス専用工場として、皿鉢や灰皿などをオートメーションで造っておりました。特に、エリザベスシリーズは、フランスバカラの文様を模したものとされていますが、大皿から大鉢、小皿小鉢と多数のアイテム展開で、金属の金具も使った二段三段のオードブル皿、現代のアフターヌーンティで使われるアイテムなどを幅広く展開して、1990年代(平成初期)には、国内外で人気のシリーズとして販売されていました、但し、同じプレスグラスメーカーの曽我硝子(前述)と比べると、重厚感や雰囲気が少し劣り、その結果低価格で販売され収益は良くなかったものと推測いたします。  その劣勢を挽回すべく、HOYAクリスタルがリストラの一環で、処分を決めたオートメーションのタンブラー製造マシーンを購入しました。残念ながら、プレスメーカーの製造技術では、ブロー成型のオートメーションマシーンの調整が難しく、コップの形に成形ができても、底肉が偏肉で偏っており販売する事が出来なかったです。  結果的に、コップの販売は叶わず、エリザベスシリーズも中国等の廉価商品との競争に巻き込まれ、急速に収益が悪化して、2000年前後(平成10年ごろ)に倒産廃業に至りました。    岩田ガラス工芸は、木本硝子としては直接の取引が無く断片的な記憶と情報になりますことをお許しください。 昭和初期頃は、食器など実用的なガラス製品を盛んに生産していた時代でした、ガラスはまだ美術工芸品としては使われていませんでした。岩田藤七1893年(明治26年)生まれは、宙吹き色ガラスによる、日本的造形美を追求し、工芸品としてのガラスを発表し続けました。   長男久利と妻糸子は、1931年(昭和 6年)岩田硝子製作所を設立。藤七の意思を継承し、さらに日本ガラス工芸の発展を目指し、研ぎ澄まされた感性で色ガラスや金などを縦横無尽に使いこなし、斬新なデザインの色と光が織り成す華麗なガラスを作り上げました。   当時の岩田ガラスの冊子にはこんな事が書かれていました。 岩田ガラスは世界に類のない日本独特のガラスです。 我国の手吹きによる色硝子は岩田ガラスによって始められ、代表されています。 一つ一つ丹念に作られる岩田ガラスは従来のガラスの観念にとらわれず、その手吹法による自由奔放で、優雅な作風は、国内はもとより、海外でも高く評価されています。 岩田ガラスは花器、食器、照明器具の他、室内装飾品にいたる各種の高級ガラスを制作しています。生活を豊かに美しく彩る岩田ガラスは、贈物、記念品にも最適です。   3人の偉業は世界的にも高く評価され、メトロポリタン美術館に岩田ファミリーコレクション(藤七・久利・糸子)として永久収蔵されており、岩田家のガラス芸術として現在も活動されております。  

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  • March 11, 2024

    48|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について18

    こんにちは🎵もう早いもので来週は春のお彼岸ですね、暑さ寒さも彼岸までと言いますが、早く温かくなって欲しいです。   カガミクリスタルは、1943年(昭和18年)に、皇室調度品(御用品)を納め以来、現在に至るまで宮内庁正餐用食器として使用されております。よく宮内庁御用達と称していますが、カガミクリスタルは「宮内庁御用品」としています。宮内庁御用達は昭和29年に廃止されており、御用達の許可を持っているわけではないので、宮内庁御用達は使っておりません、一方、例えば、銀製品で知られる老舗の宮本商行さんなどは、明治時代に看板をもらっていることから、今でも宮内庁御用達という標榜で販売しております。   その後、東宮御所、吹上御所、皇居新宮殿、迎賓館などに国賓正餐用食器及びシャンデリア納などを納入、1990年(平成2年)には天皇陛下御大礼饗宴用食器を製作して納入しました。 一方、日本を代表する企業にもクリスタルの数々を納入しています、1948年(昭和23年)に、資生堂ホワイトローズ香水瓶を1964年(昭和39年)サントリーインペリアルウィスキー瓶に使われています。 時代は、前後しますが1985年(昭和60年)カガミクリスタル株式会社に改称し、日本板硝子(株)資本100%になり、1990年(平成2年)に本社・工場を東京都大田区より茨城県龍ケ崎市へ移転しました。   2009年(平成21年)に、HOYAがクリスタル事業から撤退した後は、クリスタルガラスを安定的に供給できる唯一の国内メーカーとして、皇室関係外務省国内外の公館にグラスを供給しています。 またHOYAがクリスタル事業から撤退した後で、カットの出来るオートメーションの機械をHOYAから購入して、機械生産のカットグラスを製造しております、江戸切子は一つ一つ職人の手作業で造られ生産量が限られているのに対して、機械で大量にカットグラスを生産しております、自社で生産したクリスタルの生地だけでなく、海外から輸入したクリスタル生地をカットして販売している時期もありました。   現在も職人の手造りによる江戸切子と、機械生産のカットグラスを販売しております。 2016年(平成28年)には、ブランドロゴ、マークを一新。ブランド名をカガミクリスタルからKAGAMIに変更して、銀座のショップやオンラインでの販売に力を入れています。ここ数年は、中国でカガミクリスタルが人気で、生産が間に合わないくらいの注文がたくさん入っており、江戸切子を造っている下請けの職人達が夜の寝る間も惜しんで製作しております。  

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  • March 4, 2024

    47|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について17

    皆さん、こんにちは。三寒四温と言いますがこのところの寒さは、2月中旬に春の陽気になった後の寒なのでからだに堪えます、皆様もくれぐれもお体ご自愛ください。   今回から、宮内庁御用達カガミクリスタル、現「KAGAMI」について、お話していきます。   カガミクリスタルは1930年(昭和5年)に、各務鑛三が東京市滝野川に各務クリスタル工芸硝子研究所設立ところから始まります。各務鑛三は、東京高等工業学校で窯業を学んだあと、1920年(大正10年)満州鉄道窯業試験所に就職し窯業の研究に従事した。その後、ガラス工芸技術について学ぶためドイツ留学を命じられ、1927年(昭和2年)ドイツの国立シュトゥットガルト美術工芸学校に留学した。各務鑛三が41歳の時だった。同校で1年半、校長のウィルヘルム・フォン・アイフ教授に師事して、グラヴィールやカットなどのガラス彫刻を学び、各務はガラス工芸に魅せられた。その後、1929年(昭和4年)に留学から帰り、各務クリスタル工芸硝子研究所を独立・設立した。自身のガラス工房を作り、ガラス工芸家としてのチャレンジを開始した。もともと芸術的センスの高かった各務は、1932年(昭和7年)に第13回帝展(現在の日展)に初入選し自信をつけるとともにグラス業界で頭角を現した。   1934年(昭和9年)日本初のクリスタル専門工場「各務クリスタル製作所」を東京大田区に創立した、そして同年に第15回帝展で特選に選ばれ、作品のすばらしさが急速に認められ その後1937年(昭和12年)にはパリ万博で銀賞を受賞、1939年(昭和14年)にはニューヨーク万博で名誉賞を受賞するなどして世界的に認められた。1943年(昭和18年)に東久邇宮に内親王成子が嫁いだ際に皇室調度品(御用品)を納めた、以降皇室御用達となりました。1954年(昭和27年)各国の在外公館が再開したため、外務省へ在外公館備品としてクリスタル製品納入開始した。1958年(昭和33年)にブリュッセル万博でグランプリを受賞、1960年(昭和35年)には芸術家として最高の栄誉の一つの日本芸術院賞を、クリスタルガラスでは初めて受賞した。   各務鑛三の信念は、「時代と世代を超えて愛される至高のクリスタルブランドの追求」です、クリスタルガラスのトップブランドとしての地位を築いた。現在、KAGAMIは、250以上の日本大使館、領事館で公式に採用されており、日本を代表するグラス食器メーカーです。 前述したHOYAクリスタルが事業から撤退したり、世界各国でクリスタルグラス製造がほぼ無くなる中で、クリスタル製造の一貫生産は世界的に見ても希少な存在になります。 各務鑛三 各務クリスタル製作所 ブラッセル万国博覧会グランプリ受賞

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  • February 26, 2024

    46|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について16

    皆さん、こんにちは🎵 先週2/23は天皇誕生日ですが、実は結婚記念日でもあります♪1986年(昭和61年)に式を挙げ、その後現天皇が即位され天皇誕生日として国民の祝日になり、我々の結婚記念日もお祝い頂くことになりました🎵   HOYAクリスタルは、グラスから急成長してレンズ、メガネ、半導体装置と多角化して高収益を上げる一方、大胆なリストラ(事業再構築)を世の中に先駆けて断行して、さらなる成長を続けている素晴らしい会社です。祖業創業のグラス製造からの撤退は、業界としては大変残念ですが、経営という視点では違う評価になると思います。   1994年の事業仕分けの中で、クリスタル事業(グラス事業)は厳しい状況に置かれました、HOYAクリスタルは、百貨店や小売店などにメーカー直接販売を行っておりました、直販の売り上げ拡大のために、自社工場では製造できないアイテム(花瓶や3000円前後のギフトアイテム)をチェコやスロベニアなどの東欧諸国から輸入して販売、その後ルーマニア、タイなど調達先を広げ、商品アイテム拡大をしていきましたが、品質管理や調達タイミングのロスなど、販売金額に見合う収益を上げることができませんでした。国内の自社工場(埼玉県入間市)で生産していたクリスタルグラスは、生産能力が販売量を上回っていたために、百貨店エスカレーター前のワゴンのバーゲセ―ルのアイテムとして常時販売されており、HOYAブランドの価値を下げる結果になっておりました。生産面では、販売赤字脱却のため、クリスタル以外いわゆる普通のソーダガラスの生産をしていた、オートメーションのグラス製造設備を長谷川硝子に売却しました。   HOYAクリスタルのリブランディングとして、江戸切子をオートメーションの機械で造り展開したり(江戸切子の名称は使えません)、最高級ラインだけのショップを造ったりと数々の方策を取り続けていきましたが、2009年(平成21年)ついに、HOYAの創業事業であるクリスタル製造(時計・ガラス製品・食器向けなど)に関して、採算が悪化していたことから2009年に撤退を決定しました、すでに、HOYAは2006年(平成18年)にクリスタルグラス製造の武蔵工場(埼玉県入間市)の閉鎖を実施。2009年(平成21年)までにクリスタル事業の拠点であった東京昭島工場の設備の減損を実施し、クリスタル事業からの撤退を完了した。   私は違う視線でHOYAクリスタルを見ると、グラス業界に大きく貢献したと考えています、江戸切子の継続維持と現在の成長へ大きく貢献しておりました。いわゆる生地(クリスタルグラス)をHOYAが製造して、下請けである多数の江戸切子職人にカット(江戸切子)を入れて、販売していました。江戸切子の職人の一部が埼玉在住なのはその名残です、また、カガミクリスタル(後述予定)も加工を多数の江戸切子職人たちに依頼しており、こちらは1989年(平成2年)まで工場のあった東京大田区に職人たちが活躍しているのと同じストーリーです。江戸切子の職人たちのグループが、HOYAクリスタルとカガミクリスタル、ササキクリスタルなどに分かれていました。江戸切子の職人たちは、大手企業の下請けとして生計を立て継続しながら、技術を磨き現在の成長過程に繋がっていったと思います。   また、HOYAクリスタルはデザインや新しい造形にも長年チャレンジしており、著名なデザイナー作品の多くが世界各国の美術館などに収蔵陳列されております。    

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  • February 19, 2024

    45|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について15

    皆さん、こんにちは🎵 このところの温かさは異常ですね、2月に20度と4月中旬並みの温度で、地球温暖化を通り越して沸騰時代になってきたと感じています。   HOYAクリスタルの創業は大手の中では遅く、1941年(昭和16年)ですが日本のグラス製造や影響力はとても大きく、後に創業のクリスタル事業からの撤退や社外取締役の導入、大幅やリストラと新しいチャレンジと、従来の日本企業にない発想で世界のHOYAになって行きました。   第二次大戦中は、軍需産業として光学ガラスレンズを製造しておりましたが、終戦後マーケットが消滅したため、クリスタルグラスの製造を始めました。1947年(昭和22年)にはシャンデリア(照明)の製造を開始し、海外輸出にも力を入れていた、特にアメリカに輸出され大きな売り上げにつながった、この背景には従来シャンデリアの生産地であったチェコが共産圏となり、アメリカがチェコに替わる生産地として日本に目を付け、HOYAが代替として輸出を担う形となった。この結果1949年(昭和24年)ごろには全社売上高の約90%が米国むけ輸出(シャンデリア)を占めるようになりました、 その後は、HOYAとしては苦難の道でした、1955年(昭和30年)ごろの経済不況により業績が悪化。翌年に創業家の社長だった山中茂氏は心労により脳溢血に倒れ、事業経営の遂行が難しい状況に陥った。後任社長には娘婿の鈴木哲夫氏(当時32歳)が就任し、山中家はHOYAの経営から一歩遠ざかる形となった。 鈴木氏は、当時の日本としては珍しい合理的な経営手法を導入し、1958年(昭和33年)にはHOYAはクリスタルガラスに次ぐ新事業として、メガネ眼鏡事業に参入、その後東証2部に上場しました、またメガネの販売ルートを問屋経由でなく、HOYAは直販化によってシェアを確保できると考えていたが、直販化のためのコストが想定の6倍かかったことでHOYAの業績は悪化。日本経済の不況もあって、1966年(昭和41年)に売上高42億円・最終赤字7億円を計上して無配に転落した。そして社内でクーデターが発生し、鈴木哲夫は社長を解任された。その後鈴木氏個人で株を購入、業績も直販化が進み業績が向上したため、1970年(昭和45年)に社長の復帰し、さらに経営の多角化を進めて行った。 光学ガラス、コンタクトレンズ、半導体設計用のマスクブランクなど多角化を進め、さらに各商品群の市場占有率が高く、小さい市場でもトップシェアの製品を数多く抱える事業構成を達成し、この結果、1990年(平成2年) HOYAは売上高1,233億円に対し、営業利益154億円を確保し、営業利益率12.5%という日本の製造業では異例の高い水準を維持した。   1994年(平成6年)に鈴木氏は、経営改革を決意「事業の整理」、次に「資産の圧縮」、最後に「組織のスリム化(リストラ)」を実施し、経営効率を高める方針に舵を切った。事業面では、HOYAは競争力を失いつつあったクリスタルガラス事業を中心に、子会社の再編を実施し資産面では、事業縮小によって不要不急となった土地・建物を売却してバランスシートを圧縮した。組織面では、余剰人員の整理を実行し、人員の1/3削減や、55歳以上の選択定年制を導入した。これらの改革を1994年から2年にわたって実施し、一般的な日本企業と比較すると早いタイミングで「リストラ」を完了した。この結果、2000年代以降の事業のグローバル化を推進するための布石になりました。  

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  • February 13, 2024

    44|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について14

    皆さん、こんにちは🎵 今年は3連休がたくさんあります、3連休になるのは、1月8日(成人の日)、2月11日(建国記念の日)、2月23日(天皇誕生日)、4月29日(昭和の日)、7月15日(海の日)、8月11日(山の日)、9月16日(敬老の日)、9月22日(秋分の日)、10月14日(スポーツの日)、11月3日(文化の日)を含む10回です。これをチャンスととらえるか危機と捉えるかは各自のご判断ですが、私は一般消費が減って、外食や旅などのコト消費が増えると思います。それを日本酒グラスの拡販や普及につなげて行く、仕掛けを進めております。   前回パリメゾンドオブジェ、フランクフルトアンビエンテ展示会で気が付いたことを少しお話させていただきましたが、もう一つグラス業界にとって大きなトレンドがあります。 割れないグラスの急速な普及です、サイゼリアさんで使っている様なプラスチックのコップがおしゃれなデザイン、カラー展開、グラスと違って新規参入のハードルが高くないので、中国をはじめ世界中のメーカーがたくさん作り始めました、供給が増えてマーケットも拡大する傾向にあります、グラスにすべて置き換わるとは思いませんが、いろいろ今後のことを考える必要になると思います。   さて、日本のグラスメーカーでは石塚硝子、佐々木硝子、東洋ガラス、東洋佐々木ガラス、曽我硝子とお話してきました、今回からはクリスタル製造メーカーのHOYAクリスタルについて、ご紹介していきます。   HOYAクリスタルは、1941年(昭和16年)に愛知県出身の山中正一、山中茂の兄弟が、東京府北多摩郡保谷町下保谷(現在の東京都西東京市)で東洋光学硝子製造所を創業。光学ガラス製造を始めた、東條英機首相の要請を受けて、軍需向けの光学ガラス製造を開始。クリスタルガラスの第一人者であった山中正一氏が、兄弟の山中茂氏とともに個人創業した。 戦時中における光学メーカーは日本に6社存在しており、ニコンとHOYAの2社が海軍向け、その他4社(富士写真フイルム・小原光学・ミノルタ・小西六)が陸軍向けを担当。このうち、海軍向けの中では、ニコンが軍艦(船舶)向けを担当し、HOYAは双眼鏡・爆撃照準器・航空カメラのレンズ製品を担当した。終戦後、軍需場が消滅したため、民生用として1945年(昭和20年)クリスタルガラス食器製造開始した。 1947年(昭和22年)商号を(株)保谷クリスタル硝子製造所に変更し、本格的にクリスタルグラスの生産を始めた。    

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  • February 5, 2024

    43|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について 13

    皆様、今年も、よろしくお願いいたします。と1/15にアップしてから間が空いてしまい申し訳ありませんでした。   1/20から2/1まで、フランスパリで開催の開催されたメゾンドオブジェ展示会と、こちらに合わせて開催された江戸東京きらりプロジェクトのイベントに出席したのち、ボルドーで美味しいランチを食べてから、スペインサンセバスチチャンにTGVで入り、食とワインを一日堪能して、マドリッド経由でフランクフルトに行き、世界最大級のアンビエンテ展示会で商談の後、大西洋を渡ってニューョークに行ってクライアントと打合せして帰ってきました、今年第一回目のワールドツァーを楽しんで来ました🎵   パリのメゾンドオブジェ、フランクフルトのアンビエンテに4年ぶりに行きました、ビックサイトの何倍もあるような広大な敷地に、世界中からの出展者とバイヤーたちでにぎわっていました。 が、私が感じたことは、出展者も来場者も減っている感じです、あくまでも私の肌感覚ですが。コロナ前は電車も満員で入場ゲートも人波であふれかえり、通路や各ブースも結構な人たちがいましたが、そんな活気が無いんです。電車のストライキや中国景気、ガザやウクライナなど様々な要因なのでしょうか?それと、誰でも知っている世界ブランドのウェッジウッド、リーデル、ARCなどの巨大ブースが跡形もなく、もはや出展すらしていないそうです‼世界のメーカーの栄枯盛衰は激しく早いです、わずか数年の変化は驚くばかりです。 大きく伸ばしていると感じたのは、中国やASEAN東欧のメーカーが下請けから自社でブランドを立ち上げて華々しく出展していました、また日本の各メーカーさんもたくさん出展していて、皆さんご活躍でした。冷静に見ると現在の円安は海外から見ると、毎日3割引きのバーゲンセールのような状態です。   それでは日本のガラスメーカー、曽我硝子のお話にもどしましょう。   灰皿や花瓶、小鉢や大皿など、硝子の肉が厚くて重たく大きいものを製造するのに、プレス加工は最適です、液体状に溶けている高温のガラスを凹型と凸型の間に入れて、高圧でプレスして成形します。コップやワイングラスなどは、風船を膨らまして造るイメージですから、プレス成型はより機械的なイメージがして、設備も大きなものになります。そんなプレス成型に特化して成長したのが、曽我硝子です。   ところが、燃料の高騰や中国で最新鋭の設備でバンバン大量に作られるようになり、あっという間に淘汰され、規模を縮小するとともに一部の工場敷地が道路拡張工事にひっかかり、経営方針のゴタゴタなども重なり、2010年ごろから徐々に活動生産が縮小され、数年後にはいつの間にか社員も会社の活動も無くなってしまいまし    

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  • January 15, 2024

    42|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について 12

    皆様、今年も、よろしくお願いいたします。   年明けから能登地震、JALの事故、暗い事件など心落ち着かないことが続いております、 特に能登地震は我々ものづくりの仲間、輪島塗と酒蔵が甚大な被害を受けております、2週間たった今も詳細な状況が解からずやきもきしております。出来ることで応援しております、半年1年の時間スパンでの復興復活は厳しいと思います、5年10年と息の長い応援をしていきたいと思います。     曽我硝子は、皿鉢のなどのプレス製造のグラスに特化して大きく飛躍を遂げました、特にアメリカや中近東への輸出が大きな原動力なりました。 1985年(昭和60年)に、愛知県小牧市の工場に大型の溶解炉を導入、従来のオートメ―ションの設備と連携して、直径30cmを超える大皿や大きな鉢、30cm以上の高さのある花瓶など製造始めました、1988年(昭和63年)には、ロンドン、ニューョークに事務所を開きました、合わせてドイツフランクフルトで毎年開催されている、世界最大のライフスタイルショー「フランクフルトメッセ」に出展して、世界マーケットへ大きく販売をしておりました、 特にバラ柄のローズシリーズは、小鉢、大皿、大鉢、楕円皿、パンチボールセット、珈琲マグなど多数のバリエーションに加えて、加工バリエーションも多くプレーン、サンドブラスト、ラスター加工、口金加工などあり、幅広いバリエーションと加工ラインがあり、世界マーケットで素晴らしい大ヒット商品になりました。   木本硝子の歴史の中でお話した、在日アメリカ軍基地などでも飛ぶように売れ、毎回お客様から注文をもらって送っていました、この商品のおかげもあって今の木本硝子があるといっても過言ではないというほど、売れた思い出深い商品です。   アメリカではMIKASAブランドで販売されていました、MIKASAはマーケティング会社で木本硝子のようにファブレス企業として、MIKASAブランドで商品企画、開発して世界中のベストソーシング先で製造して、アメリカを中心とするマーケットに販売しております、1990~2000年にかけては、グラスは曽我硝子がメインのサプライヤーになり、アメリカマーケットにローズシリーズが大量に販売され、曽我硝子が大きく成長した時期になります。 日本においても、国内代理店流通と共に1980年代までは、HOYAクリスタルへのOEM供給などが下請けとしての販売がメインでしたが、1987年(昭和62年)に直轄の販売会社SOGA、エトワールソガを設立し、国内の特約店に直接販売を始めました。    

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  • December 25, 2023

    41|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について11

    皆さん、こんにちは🎵 クリスマスは楽しみまれましたか>??我が家には5人の子供がおりますが、4人が結婚して独立した所帯を持っており、一緒に住んでいる末娘は就職して、仕事とプライベートを謳歌しております♪ 10年ほど前までは、毎年この時期から年末年始にかけて、食事に出かけたり嫁さんの料理をみんなで囲んで楽しんでおりましたが、ここ数年は嫁さんと二人静かにクリスマスを過ごしております、ちょっと寂しい気もしますが、結婚した年に長男が生まれそれ以降は、怒涛(笑)の毎日を騒がしく30年間も過ごしていたので、嫁さんと二人の時間がほとんどなかったです。 今は、のんびり静かに昔話や子供たち孫の話題など話してクリスマス楽しみました🎵 歳より臭いけど、まぁ歳相応かと(笑)   日本の大手ガラスメーカーとして、石塚硝子、佐々木硝子、東洋ガラス、東洋佐々木ガラスのお話をしてきました、今回からはプレスの専業メーカー曽我硝子のお話をしていきます。   曽我硝子は、初代曽我作太郎が名古屋市で1907年(明治40年)にグラス製造業を始めました、その後戦争を経て1950年(昭和25年)にプレスによる押型製造に着手しました、曽我式回転押型製造機械を開発し、1960年(昭和35年)には、押型の自動製造オートメーションによる大量生産体制を築き、国内の流通は全国8代理店と特約店300店を組織化して、販売体制をつくりました。 また、当時ガラス食器の荷造りの常識であった炭俵に、縄掛けをダンボールカートンと化粧函姿に切り替え、同業者はもとより他業界の包装様式にも大きな刺激と革命を起こしたといわれています。   グラスマーケットの大部分はいわゆるコップやワイングラスのようなどドリンキングウェアーです、小鉢やお皿、花瓶、灰皿のアイテムは主流では無いですが、生活にとっては必要なグラス類になります。 曽我硝子は、この非主流と言われる皿鉢、プレスのグラスに特化していきました、世界的にも、プレスの専業メーカーは少なくドイツのワルター社、現在はリーデルグループになりましたが、ドイツのナハトマンとドイツ/チェコの一部中小メーカーと数えるほどです。近年は中国で大型の自動成型機を持つメーカーが多数製造しており、その影響でナハトマン以外の工場は廃業したところがほとんどです。     2023年のブログは今回で終わりになります、2024年1月15日からになります、今年一年お世話になりました。来年も、引き続きよろしくお願いいたします。   良い歳をお迎えください。  

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