49|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について19
皆さん、こんにちは🎵 先日の日曜日は春のお彼岸の入りということで、墓参りに朝早くから行って来ました、木本家、お袋の実家、嫁さんの実家と3か所のお墓に花を手向け、線香をあげて家内安全・商売繁盛を見守ってくださいとお願いしてきました。 今回は、既に無くなっている、若しくは形態を変えているグラスメーカーのお話をしたいと思います。手元にデータなども無く、私の記憶をつなぎ合わせていきますので、実際とは違っていることもあり得ますが、時代の流れということでご容赦ください。 先ずは、群馬県渋川市で操業しておりました、長谷川硝子です。こちらはプレス専用工場として、皿鉢や灰皿などをオートメーションで造っておりました。特に、エリザベスシリーズは、フランスバカラの文様を模したものとされていますが、大皿から大鉢、小皿小鉢と多数のアイテム展開で、金属の金具も使った二段三段のオードブル皿、現代のアフターヌーンティで使われるアイテムなどを幅広く展開して、1990年代(平成初期)には、国内外で人気のシリーズとして販売されていました、但し、同じプレスグラスメーカーの曽我硝子(前述)と比べると、重厚感や雰囲気が少し劣り、その結果低価格で販売され収益は良くなかったものと推測いたします。 その劣勢を挽回すべく、HOYAクリスタルがリストラの一環で、処分を決めたオートメーションのタンブラー製造マシーンを購入しました。残念ながら、プレスメーカーの製造技術では、ブロー成型のオートメーションマシーンの調整が難しく、コップの形に成形ができても、底肉が偏肉で偏っており販売する事が出来なかったです。 結果的に、コップの販売は叶わず、エリザベスシリーズも中国等の廉価商品との競争に巻き込まれ、急速に収益が悪化して、2000年前後(平成10年ごろ)に倒産廃業に至りました。 岩田ガラス工芸は、木本硝子としては直接の取引が無く断片的な記憶と情報になりますことをお許しください。 昭和初期頃は、食器など実用的なガラス製品を盛んに生産していた時代でした、ガラスはまだ美術工芸品としては使われていませんでした。岩田藤七1893年(明治26年)生まれは、宙吹き色ガラスによる、日本的造形美を追求し、工芸品としてのガラスを発表し続けました。 長男久利と妻糸子は、1931年(昭和 6年)岩田硝子製作所を設立。藤七の意思を継承し、さらに日本ガラス工芸の発展を目指し、研ぎ澄まされた感性で色ガラスや金などを縦横無尽に使いこなし、斬新なデザインの色と光が織り成す華麗なガラスを作り上げました。 当時の岩田ガラスの冊子にはこんな事が書かれていました。 岩田ガラスは世界に類のない日本独特のガラスです。 我国の手吹きによる色硝子は岩田ガラスによって始められ、代表されています。 一つ一つ丹念に作られる岩田ガラスは従来のガラスの観念にとらわれず、その手吹法による自由奔放で、優雅な作風は、国内はもとより、海外でも高く評価されています。 岩田ガラスは花器、食器、照明器具の他、室内装飾品にいたる各種の高級ガラスを制作しています。生活を豊かに美しく彩る岩田ガラスは、贈物、記念品にも最適です。 3人の偉業は世界的にも高く評価され、メトロポリタン美術館に岩田ファミリーコレクション(藤七・久利・糸子)として永久収蔵されており、岩田家のガラス芸術として現在も活動されております。