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  • May 20, 2024

    58|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について28

    皆さん、こんにちは🎵 日本のグラスメーカーの紹介をして居りますが、カメイガラスが問屋のポジションでありながら、自社でブランドとデザインを展開して、国内外のグラスメーカーとチームを組んで、グラスの新しい世界を作り上げ、マーケットを拡大していきました。   木本硝子もカメイガラスの商品群や調達ルートを活用して、国内外のグラスメーカー様と取り組み、イオングループをはじめ伊勢丹・三越・高島屋様などへグラスを販売しておりました、そんな思いから、日本のグラスメーカーもカメイガラスの取り組みと合わせながら、ご紹介していきたいと思います。   先ずは青森の北洋硝子です、大手グラスメーカーのアデリアの項目でも説明し、現在は石塚硝子の子会社になっておりますが、カメイガラス全盛期は、北洋硝子で造り上げた津軽びいどろが、百貨店や専門店でたくさん販売されていました。   「津軽びいどろ」を生産する北洋硝子の始まりは1949年、漁業用の浮玉(うきだま)製造からでした。当時は他にも浮玉を製造する工場がありましたが、北洋硝子の吹き上げる浮玉は他に比べ丈夫である、という確かな品質の評価を得て、1973年には国内トップの生産高となりました。その後、浮玉がプラスチック製に切り替わったことから、長年の浮玉製造で培った「宙吹き」の技法を用いて大ぶりな花器などの生産を始めました、秋村実などの作家によって数々の色遣いの鮮やかで大ぶりな花瓶などが吹きあげられました。   青森という交通が不便な地理的条件もあり、色ガラス等の原料も自社で調合して補ってきました。青森にたくさんある海岸のなかで、一際美しい砂浜と緑豊かな自然が続く七里長浜。あるとき職人がふと思いついて、その七里長浜のひと握りの砂を原料として加えたところ、そのガラスは、えも言われぬ深みのある緑へと色を変えました。   その成形技術と色ガラスを掛け合わせた工芸品として、1977年に食器や花器などで構成された『津軽びいどろ』が誕生しました。職人たちは技術開発にも力を注ぎ、美しい色ガラスの調合や、高い技術を要する技法もほぼ独学で習得するなど、常に新しい技へのたゆまない努力を続けています。 これらのグラスや花瓶のデザインや販売をしていたのが、カメイガラスです。カメイガラス倒産後は、石塚硝子の子会社となり、吹きガラスだけでなくスピン成形のグラスや、圧迫成型の徳利/醤油さし/花瓶なども生産するようになり、現在では青森県の伝統工芸品の指定を受け、青森県内のホテルレストランやお土産物などて販売されている人気商品です。

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  • May 13, 2024

    57|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について27

    こんにちは🎵カメイガラスが開発輸入していた、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの国々のグラス工場のお話をしていきます。 現在はほとんどの工場が倒産、廃業しており、当時の技術やデザインが残されているものは少なく貴重なものになってしまいました。   ハンガリーには、アイカクリスタルajka-crystalという工場がありました、ちなみにajkaは地名で、陶器で有名なヘレンドHerrendも、所謂ヘレンド村の陶器ですし、ajkaもアイカ村のグラスという感じになります。アイカは、ハンドメイドのクリスタルグラスと色被せグラス、職人によるハンドカットの技術が特徴で、細かいカットのクリスタル製のワイングラスを2000年(平成12年)ごろは、ペアで3500円~4000円と手ごろな価格で開発輸入販売して、結婚式の引き出物やプレゼント等、大人気のヒット商品でした。江戸切子に使われている色被せ硝子に、葡萄文様のカットを入れたグラスセットも、10000円前後で販売されて人気でした。その後、数年後には工賃などが上がり、ハンガリーのajkaから、ルーマニアにソーシング先の工場を変えて生産販売していました。AJKAクリスタルも数年前に倒産廃業してしまいました。   カメイガラスは、ドナウ川流域の手造り硝子工場から、作り出すグラスをCRYSTAL DONAUとブランディングして、商品開発と販売を積極的に行い、CRYSTAL DONAUブランドは、2000年(平成12年)前後は、三越・伊勢丹・高島屋・阪急などの全国の百貨店や専門店でコーナー展開をされ、HOYAクリスタルと合わせて、当時は日本のグラス絶頂期と言われています。   ハンガリーの隣のポーランドには、数多くのクリスタルグラス工場があり、おもにアメリカ市場にMIKASAブランドや各社のPBで大量に販売されていましたが、ソーシング先が中国・トルコなどに替わったため、KROSNO以外のスデティ、ビオレツタ、ザビレチェなどの工場はほぼ無くなってしまいました。   ルーマニアにも数多くのグラス工場がありました、首都のブカレストから国内便の小さいプロペラ機に乗って、数か所の工場を見に行きました、当時はあのチャウチェスク政権が崩壊した直後で、エイズも世界一流行っていて、衛生状態や治療設備もないため、イギリスやドイツから来る飛行機から、万が一のことを考えパイロットやCAは一切機外に出ませんでした。今から考えると、よくそんな時期にルーマニアに行ったもんだと思います。いずれの国もワインを醸造している関係で、硝子産業は盛んで、硝子瓶だけでなくグラスも数多く作っていました、人件費が圧倒的に安く、ドイツ・フランスの1/5程度と言われていました、また、さらに驚いたことに、そんな厳しいルーマニアに、ロシアから出稼ぎに来ていることでした。ロシアはルーマニアよりさらに厳しい状況だったと推測いたします。

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  • May 7, 2024

    56|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について 26

    皆さん、こんにちは🎵 GWはどう過ごされましたか//私は、日本の秘境鉄道と言われる只見線を乗り鉄したり、テニスや嫁さんと映画見に行ったりと、のんびりと過ごしました🎵   このところ、日本のグラスマーケットに多大な影響を与え、グラスマーケットを大きく拡大させたカメイガラスについて、お話しております。ある意味木本硝子と同じ問屋でありながら、KAMEIブランドとして、商品開発や独自の調達ルートを探してチャレンジしておりました。   調達メーカーについて、フランス、ドイツ、チェコ・スロバキアとお話してきました、今回は、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの東欧諸国のメーカーのお話をしていきたいと思います。   チェコ・スロバキア1993年(平成4年)に分離独立してそれぞれ共和国になりました、この国のグラスは、共産党時代から長らく三菱商事系の商社が独占的な販売権を持ち、日本国内の流通も価格もコントロールしておりました。自由主義圏に入ってからは、各工場が独自の商品開発や販売を行い、日本国内に多方面から輸入されるようになりました。   一方、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの国々からのグラスの輸入は、一部の小さい商社が極少量、民芸品のような扱いでしか、輸入されていませんでした。 カメイガラスは、商品開発チームと調達チームで、いわば未踏の工場を一つ一つ回って、商品開発をして、日本に輸入していきました。私も2000年頃、カメイガラスチームと東欧諸国に同行したことがありますが、それはそれは、今の常識では考えられない過酷な旅でした(笑)、スーツケース一杯にカップヌードルなどや、食べ物を詰めていきました。まともなレストランも当時は無かったです、日本食レストランは、ハンガリーのブタペストに1.2軒、ポーランドはワルシャワに一軒、ルーマニアには一軒も無かったです。レストランに行ってもテーブルやナイフ・フォークは真っ黒、先ずは持って行ったティッシュで吹くことから始まり、食材は限られチキンがあれば上々、イタリアンレストランに行ってもパスタが無い‼、使っている油が微妙で味付けも中々という感じでした、そのかわり工場と工場の移動中の景色は、最高でした🎵いまでも忘れられないのは、GW中に行ったホーランドです、見渡す限り平原に菜の花が一面黄色の絨毯のように満開に咲き乱れている中に、ポツンと一本だけピンクの桜の木が満開の花を咲かせていました。この世のものとは思えない天国のような、素晴らしい景色でした。   次回は本題のグラス工場のお話をいたしますね。     

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  • April 30, 2024

    55|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について25

    皆さん、こんにちは🎵 先週からGWに入りましたね、今年は3日頑張って休みを取ると10連休になりますね、私は連休初日の27日は地元松戸の公園で、楽しく酒友仲間たちと、大人のバーベキューを楽しんで英気を養ってきました、皆さんも連休楽しんでくださいね。   先週に引き続いて、日本のグラスマーケットに多大な影響を与え、グラスマーケットを大きく拡大させたカメイガラスについて、お話していきたいと思います。 繰り返しますが、カメイガラスはメーカーというより問屋から発展した、プロデュース会社のポジションで、自社でブランディング、デザイン、調達、セットアップ、物流を行ってきました、他のメーカーとチヨット違う視点でのビジネスが、私は日本のグラスマーケットに大きな影響を与え、グラスマーケットの拡大に大きく寄与したと思います。   前回に続いて、旧共産圏時代の東欧チェコスロバキアからのグラスの輸入について、お話しします。   共産時代は、国営の貿易商社であるグラスエキスポートが、国内すべてのグラスの輸出窓口であり、日本では三菱商事系の明和産業が独占的な輸入販売、価格統制を行っておりました。 共産主義体制が崩壊して、各工場が独自に販売、輸出を行うようになり、カメイガラスや貿易商社がこぞってチェコ、スロバキアからグラスを輸入するようになりました。 チェコの工場は、CRYSTALEXとSKLO BOHEMIAの大手オートメーションの工場と中規模のPOLTAR、ポディブラディ、手造り工場のカロリンカなど、スロバキアは大手のオートメと手造りを製作しているRONA、手造り硝子のクベトナなど多数の工場が、それぞれの製作特徴を生かしたオリジナルグラスを造っておりました。 ボヘミアクリスタルという代名詞に象徴されるように、各工場の生産技術と職人の腕は素晴らしいものでした、フランスのバカラやオーストリアのロブマイヤーなどの、高級で繊細なグラスが、卓越の技術を持つ職人たちによって一つ一つ吹きあげられていきました。 解放後は、ドイツやオーストリア、ロシアなどからの資本と技術が入り、大きくチェコ、スロバキアのグラス製造は伸びました、一方国やグラスエキスポートによる管理が無くなり、自由競争になったため、工場間のコスト競争、技術競争、販売競争が激化して、統合合併、廃業、復活などの淘汰が2000年(平成12年)代に入ると、激化していきました。 又、中国やトルコなどから、オートメーションと手造りグラスが大量に世界マーケットに販売され、自由化以降のチェコ、スロバキアの人件費高騰、石油価格の上昇などにより、多く工場が閉鎖、倒産していきました。現在は、チェコのCRYSTALX、スベトラ、スロバキアのRONAなどが現在も活躍しています。  

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  • April 22, 2024

    54|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について24

    皆さん、こんにちは🎵 先週に引き続いて、日本のグラスマーケットに多大な影響を与え、グラスマーケットを大きく拡大させたカメイガラスについて、お話していきたいと思います。   手元にある一番古いカタログが1989年(昭和64年・平成元年)のものです。   カメイガラスが復刻させた薩摩切子や江戸ビードロ、長崎硝子のシリーズについて、お話しました。そして輸入品の扱いアイテムの紹介で、フランスARC社、ドイツのワルター社のお話をしました、今回からは東欧、チェコ、スロバキア、ルーマニア、ハンガリーの工場の商品について、お話していきたいと思います。   旧共産圏と言ってもピンとこない皆さんが多いと思います、米ソ冷戦時代で自由陣営の西欧と、旧ソ連に支配されている東欧は共産圏と言われ、鉄のカーテンと言われる厳しい国境管理と軍事力の睨み合いがありました。ビジネスにおいても、現在の北朝鮮、ロシアに対する経済制裁と同じような形態で、共産圏諸国との貿易については様々な制限がありました。   経済的にも旧共産圏は貧しい国々と言われていましたし、渡航についてもビザの取得義務など厳しい制限がありました。そんな状況でも、各国は外貨とくにドルを稼ぐために国策として産業育成を行っていました。とくに、旧チェコスロバキアは有名なボヘミアクリスタルの産地であり、国内各地にたくさんのグラス工場やカットや加工をする職人たちが多数おりました、また高校や大学においてもグラス製造の技術・研究が盛んで、必修科目として全学生にグラスについての教育がされていたと聞いております。   チェコスロバキア時代は、貿易の窓口はチェコ側は輸出公団グラスエキスポートが一括して行い、日本側の窓口は三菱商事系の明和産業が独占的に扱っており、明和産業の子会社の明和セールスが、三越伊勢丹高島屋などの百貨店や百貨店問屋に販売卸しておりました。 1989年(平成元年)のビロード革命によって共産主義体制が崩壊するとまもなく分離の動きが進み、1993年(平成4年)チェコスロバキアは連邦制を解消してチェコ共和国とスロバキア共和国に分離独立しました。国が分かれたのと、各グラス工場が独自の販売やブランディングもするようになり、必然的にグラスエキスポートも解体変遷の流れになって行きました。カメイガラスは当初は、明和産業が独占的な契約のため、各工場はカメイガラスと取引したくても、なかなかできない状態でした。明和産業は、高価なボヘミアクリスタルを独占的な販売代理店ということで、日本の価格をコントロールして利益をしっかりと確保しており、現地のコストからは考えられないような国内上代設定をしていました。一方工場は、日本のマーケットに高価なクリスタル以外のグラスも販売したいということで、明和産業が扱わない廉価なグラスやオートメーションで造られたグラスをカメイガラスは徐々に扱うようになってきました。      

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  • April 15, 2024

    53|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について23

    皆さん、こんにちは🎵 先週に引き続いて、日本のグラスマーケットに多大な影響を与え、グラスマーケットを大きく拡大させたカメイガラスについて、お話していきたいと思います。   手元にある一番古いカタログが1989年(昭和64年・平成元年)のものです。   先回は、カメイガラスが復刻させた薩摩切子や江戸ビードロ、長崎硝子のシリーズについて、 お話しました。そして先週からは輸入品の扱いアイテムの紹介で、先ずはフランスARC社のグラスについて、お話しました。某パン屋さんのキャンペーン商品として有名なフランスARC社に続いて、ドイツのワルター社のお話をします。   Walther Glas社はドイツにあったプレス専門のグラスメーカーです、1865年に設立された、ドイツの老舗ガラスメーカー。ドイツの職人によって生み出される質の高い商品は、ドイツだけでなく、ヨーロッパ、アメリカでも人気で、日本はカメイガラスがほぼ独占的に販売していました。   世界でプレス(皿、鉢、バスケット、花瓶など)を中心にグラスを製作していたのは、前述の日本の曾我硝子、長谷川硝子とドイツのワルター社が2000年前後は大手のメーカーでした、その後、中国やインドネシア、トルコなどでも作られるようになり、価格競争、販売激化により3社とも現在は廃業してしまいました。   ワルター社の大ヒット商品はカルメンシリーズです、大柄の花柄が小鉢や大皿、花瓶などに入っており、グラスのアイテムとしての広がりもたくさんあり、そのグラスに色を付けたり、サンドブラストで白の装飾を施したりしたものが、毎年大量に販売されていました。   ドイツの深い森の中にある工場は、環境対策にも昔から取り組んでおり、排水や熱処理、グラスの製造後に出るごみなども、環境に配慮して処理していました。ワルター一族の経営をM&Aで外部の会社に売却してからは、デザインも営業スタイルも変わってしまい、廉価なアイテムに負けてしまい廃業してしまいました。

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  • April 8, 2024

    52|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について22

    皆さん、こんにちは🎵 先週に引き続いて、日本のグラスマーケットに多大な影響を与え、グラスマーケットを大きく拡大させたカメイガラスについて、お話していきたいと思います。   手元にある一番古いカタログが1989年(昭和64年・平成元年)のものです。   先週は、カメイガラスが復刻させた薩摩切子や江戸ビードロ、長崎硝子のシリーズについて、 お話しました。 今回は、輸入品についてお話していきます、先ずはフランスのJGデュラン社、2000年(平成12年)にARCと社名変更しました、1990年代は、フランス最大級のグラスメーカーで、クリスタルグラス、ソーダグラス、強化ガラス、耐熱ガラス、キッチン・調理用の超耐熱グラスなどを生産しておりました、パリか3時間程度郊外のARC村に工場がありました。当初は、代理店経由で取引しておりましたが、1980年代後半から直接取引になり、ARC社の開発技術とカメイガラスのデザイン、日本のグラスマーケットへのプロモーションが合致して、年間10数億以上の取引でした。グラスだけでなく30CMの大きいサイズの花瓶などもオートメーションのクリスタル工場で生産して大きな売り上げになっていました。また前述のHOYAクリスタルに対抗して、ARC社の高い技術力で、世界で初めてクリスタルの色被グラスを開発し、更にNC制御のカットマシーンで切子を作り出しました。その後HOYA クリスタルもマシーンで色被の生地を作り出し、NC制御のカットマシーンでカットグラスを世に出しました。    またARCと言えば、某パンメーカーの白い皿のキャンペーンが有名です、こちらはARC社の強化ガラスの乳白色のグラスや皿鉢で、生地の上に絵柄をプリントしたり、後には黒色の強化ガラスも開発発売しました。ところで、たいていのご家庭に、は白い皿があると思います(笑)、皆さんどのくらいの枚数がキャンペーンで毎年配られていると思いますか/// ピーク時には1000万枚近く使われました、これだけの量と価格、物理的なボリュームで対応できるものが、陶器や他のクラスではできない為、またお客様にも人気なので30年以上使われている、キャンペーンアイテムです。当初はフランスの工場で造られていましたが、現在はドバイの工場で造られています、フランスの会社で造っているということで、フランス国旗が貼られているのかと推測いたします。    喫茶店やレストランで使われているグラス、特に全面強化のグラスは同じフランスのDURALEXが有名ですが、アイテム数やシリーズの数は圧倒的にARC社が多いです、また耐熱ガラスもアメリカのPYREXが有名ですが、ARC社も調理用の鍋やキッチン用品を多数出しています、カメイガラスが1997年に倒産廃業後は、陶器やグラスを扱う問屋がARCの商品を扱っていますが、カメイガラス時代の売り上げボリュームには遠く及びません、またARC自体も、クリスタルの生産を辞めたり、大幅や組織の縮小、生産体制の縮小、人員整理で会社の規模も小さくなってしまいました。

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  • April 1, 2024

    51|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について 21

    皆さん、こんにちは🎵 先週に引き続いて、日本のグラスマーケットに多大な影響を与え、グラスマーケットを大きく拡大させたカメイガラスについて、お話していきたいと思います。   手元にある一番古いカタログが1989年(昭和64年・平成元年)のものです。   カタログを見ると、国内の10数社の手造り硝子工場や職人たち、加工工場とフランス・ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・台湾・韓国など世界中のグラス工場から輸入していました。各工場やメーカーの造り上げたグラスだけでなく、カメイガラスとしてデザインして、各ソーシング先に製造委託し、加工や検品、セットアップなどファブレス企業として、メーカーポジジョンで商品企画、商品開発、卸・販売などを行っており、カメイガラスというブランドで幅広く展開しておりました、木本硝子はカメイガラスと比べ物にならない小さい会社ですが、カメイガラスのブランティング、商品開発、商品調達、企画アイデアと行動を学んで、木本硝子でしか表現できない世界観のグラスをプロデュースしております。   カタログに沿ってカメイガラスの商品と製作していた工場、職人を解る範囲でお話していきます。 トップページは、前回お話した復刻の薩摩切子です、薩英戦争でイギリス軍の艦砲射撃で壊滅され途絶えてしまった、薩摩切子を1985年(昭和60年)に復刻させました。現在の鹿児島の薩摩切子製作者は、カメイガラスからの流れで製作しているところが、少なくありません。グラスの生地は、大阪のアサヒガラスや千葉の山谷硝子で製作して、江戸切子職人や大阪の切子職人たちが切子細工を加工して、薩摩切子として販売しておりました。のちに、国内だけでなく海外の工場で製作された時期もあります。   大阪で製作されて物は、江戸切子とは称することができない為、カメイガラスは江戸ビードロと称し、藍と紅の2色の切子商品を展開しております、特に紅については金を使った金赤と呼ばれる、より高価な素材(生地)を使って製作しておりました。   長崎硝子のシリーズ名で展開しているアイテムは、吹きガラスで作り上げた、色ガラスに金箔を貼ったり、サンドブラストで加工して文様を表現しました、こちらの商品も大阪のアサヒガラスや千葉の山谷硝子で製作しておりました、どちらの工場かは定かではありませんが、お酒を注ぐちろりの製作技術は素晴らしいものです。 現在、このちろりを製作できる工場は、佐賀の副島硝子で、備前ビートロとして制作販売しております。  

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  • March 25, 2024

    50|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について20

    皆さん、こんにちは🎵 今回はグラスメーカーではありませんが、日本のグラスマーケットを大きく飛躍拡大させた、カメイガラスについてお話していきたいと思います。   カメイガラスはメーカーでは無く、業態としては木本硝子と同じ問屋業です。メーカーから仕入れて販売していると同時に、自社でデザインした商品を委託生産して販売、世界各国から輸入して、全国各地の食器問屋・グラス問屋・専門店・飲食店用の業務卸会社・ギフト問屋・カタログギフト各社・現金問屋など、独自のデザインと積極的な営業スタイルで、グラスマーケットの新しい世界を作り上げていきました、残念ながら放漫経営(私見ですが)で、1997年(平成9年)に倒産廃業に至り、その余波で国内外数多くのグラスメーカーが、倒産廃業の他、大きな痛手を受け工場の統廃合や経営権移譲などが行われました。   詳しい資料も見つからず、私が業界に入る前のことなので一部不正確なところもありますが、カメイガラス全盛期の1980~90年代(昭和55~平成初期頃)からのお話をしていきます。グラスの歴史で前述いたしましたが、大阪天満宮近く現在の与力町・同心界隈では、江戸時代に長崎のガラス商人播磨屋久兵衛が、オランダ人が長崎に伝えたガラス製法を学び、グラスなどを作っていたと言われています。その後、与力町・同心界隈を中心にガラス工場が増えていき、大阪のガラス産業は急速に成長しました、その業者の数は東京を凌いでいたとの記述もあります。その後、プラスチックや国内外の価格競争に押されて、隆盛を誇った大阪のガラス産業も衰退し、今では「大阪ガラス発祥之地」の碑が残る、天満界隈からグラス工場は姿を消してしまいました。 そんなグラス工場がたくさんあったところで、問屋としてカメイガラスが創業して、仕入れ先のグラス工場を増やし、業容を拡大して行きました。   カメイガラスの功績として、今も称えられるのは薩摩切子の復刻です。1980年(昭和55年)に、当時のカメイガラス社長亀井節治社長の指揮下で、薩南戦争で途絶えていた薩摩切子の復刻に、由利精助氏宇良武一氏などの大阪の切子職人たちが関わり1985年(昭和60年)に復刻させました。薩摩切子は、幻の切子といわれ、製造されていたのは幕末から明治初頭のたった数十年間です。当時の製法や加工方法などの記述も無く、また現在も残っているものは数百点ほどしかありません。東京のサントリー美術館で一部がみられる程度です。 原材料の入手、不純物を取り除く精製、グラスを溶かすための燃料原材料、高温で溶かすための技術、それらを造るために高温に耐えられる設備、様々な道具、グラスに色を付けるための金属化学反応の知識、色の具現化、分厚く造り上げた色被グラスをカットする技術(厚いグラスは光を通しにくくカットが難しい)などなど、現存の薩摩切子を見ても江戸時代の僅か数10年で、どうやって開発して造り上げたのか疑問だらけです。  

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