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  • 12月 20, 2023

    40|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について10

    皆さん、こんにちは🎵 毎年この時期は酒好きの友人たちと、酒蔵巡りを楽しんでおります、というのもこの時期は旅行の端境期なので、この時期に発売される大人の休日パスという超お得な切符があるからなんです。50歳以上と入会条件がありますが、会員になると年に4回ほどJR東日本の区間全線新幹線も含めて4日間乗り放題で、15270円とお得な切符です。 今回も、上野⇒秋田⇒盛岡⇒新青森⇒青森⇒弘前⇒五能線⇒能代⇒八郎潟⇒秋田⇒上野と5万円近く乗ってきました。こちらお勧めしますよ~年取って一番得した気分になります♪   佐々木硝子と東洋ガラスといういわばライバル同士が、佐々木硝子の倒産と東洋製缶グループの食器への拘りなど、不思議な歴史の流れで2002年(平成14年)「東洋ガラス株式会社 ハウスウエア部門」と「佐々木硝子株式会社」が統合。「東洋佐々木ガラス株式会社」となり、千葉県八千代市に、最新のオートメーション設備とハンドメイド部門の両方を併せ持つ新工場「東洋佐々木ガラス千葉工場」が完成しました。   統合に際しては、リストラや一部商品の統廃合などの負の部分もありましたが、統合によってグラスの生産が順当に行われ、佐々木硝子の持つ技術・デザイン・マーケティングが継続することになり、グラス業界そして消費者やクライアントたちにとっては、朗報でした。 2007年(平成19年)には、鉛を含まない環境に配慮した新素材のクリスタルガラス「ファインクリスタル」を開発し商品化し、翌年にはイオン強化(化学反応による強化ガラス)のファインクリスタルを発売しました、これらは日本国内においては特許を取得しています。   佐々木硝子から受け継ぎ、継続的に販売してきた、国産初の食器用強化グラス「HS ハードストロング」が、2017年(平成29年)に発売より50周年を迎える。また、業務用強化グラスの定番として販売されている、「HS」製品が発売以来およそ8億個の販売レコードを達成しました、一つのシリーズで50年にわたり販売し続け8億個も販売したグラスは、日本では「HS ハードストロング」だけと思います。   その後、景気の低迷さらにはデフレの時代になり、低単価商品のウエイトが高くなり、100均ショップへの販売が拡大して、大量に販売されていきました、その結果業績が徐々に悪くなり、2基あったオートメーション用の窯を一基にして、生産量を減らしたほか、脈々と続いていた手造り硝子の製造を一部止めてしまい、職人も減らしてしまいました。 その結果、職人からの技術の伝承が出来ず、技術力の高く高品質なグラスの製造ができなくなり、高度化するマーケットの要望に応えられず、そして売り上げが低迷して、また製造ラインを縮小していくという、最悪な循環サイクルになっていると私は感じております。 高付加価値、高単価商品の生産こそが、日本の工場が生き残る方法かと、私は考えています。   東洋佐々木ガラスには業界のリーダーとして、未来を見据えて手造り硝子の技術の伝承と商品開発に頑張ってほしいです。  

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  • 12月 11, 2023

    39|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について9

    皆さん、こんにちは🎵先週はお話の前に母校明治に熱くなり過ぎ失礼しました(笑) 幾つになっても母校愛が強いです♪   東洋ガラスの創始者島田孫市は、三菱財閥の岩崎ファミリーとビジネスを進めたり、大阪に工場を造り、他の工場も誘致して大阪を東京と並ぶ、日本のガラス産業発展の地とすべく活躍しておりました。1927年(昭和2年)大阪市北区で講演中に脳溢血で倒れ66歳で死去、息子が継ぎ、1928年(昭和3年)米国より最新鋭の全自動押型機を導入し、タンブラーの製造を開始。最新鋭の重油燃焼タンク炉と合わせ、高品位な商品を量産していた。1931年(昭和6年)鉛クリスタルガラスの量産化に成功。当時、市場にほとんど出回っておらず、日本での草分けとなる。戦前には、食料品缶詰代用の容器としてガラス製コップの製造を開始、当時生産統制下で不足していたブリキの代用として大量に使用される。終戦後、占領軍向けの照明ガラス生産や硝子瓶の製造を開始した。1953年(昭和28年)東洋ガラスとなり、総合容器メーカーである東洋製缶グループの一員となりました。                  東洋ガラスは、硝子瓶とハウスウェアー部門として食器を製造しており、1962年(昭和37年)オートメーションクラス製造機H-28マシンを導入。1957年(昭和32年)に日本では佐々木ガラスが最初に導入した、ものに続き日本のグラスの供給過多へと続くことになります。 その後、次々と新鋭の製造マシンを入れていきました、1969年(昭和44年)には、プレスダブル成形機を導入。一度に2個の製品がプレス成形できる新鋭機で、安価で高品質の皿鉢が大量供給可能になりました、また1978年(昭和53年)には、TBMマシン導入。ガラスを金型にほとんど押し付けずにタンブラーを成形できることで、生地肌の美しい高品位グラスの生産が可能になる。 技術進歩と大量生産が、明治から続く全国各地の手造り硝子工場を結果的に潰していくことになります。時代の流れと捉えるかちょっとノスタルジックに考えるかは、皆さんのご判断にお任せいたします。   世界で初めてチタンを使ったクリスタルの食器を開発発売など、技術的にも東洋製缶グループの力を借り、チャレンジをしてきましたが、ライバルである佐々木硝子、石塚硝子に続く三番手と業界で言われてきました、その後、倒産した業界ナンバーワンの佐々木硝子と合併していくことになりました、歴史の不思議さと縁を感じます。   次回は、「東洋ガラス株式会社 ハウスウエア部門」と「佐々木硝子株式会社」が統合。 「東洋佐々木ガラス株式会社」についてお話していきます。  

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  • 12月 5, 2023

    38|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について8

    皆さん、こんにちは🎵 プロフィールにもありますが、私は明治大学付属明治高校から明治大学商学部で勉学(笑)に励んでおりました、明大明治(我々の通称)は当時、男子校でお茶の水駿河台に会ったことから、下町の商家の息子連中が多く、特に木場の材木問屋や下町の料理屋の息子連中が多かったです、2008年(平成20年)に駿河台から調布に移設し男女共学になりました、何と偏差値は現在72となっており、我々の同期の子供立ちの中で、親と同じ明大明治に進んだ子供たちは残念ながらおりません(苦笑)   我々の自慢は校歌が、明大と同じことでした、高校時代から白雲なびく駿河台~おお明治~と高らかに歌っておりました、それは受験を経て入ってくる学生へ我々がリーダーとして、明治の質実剛健などの校風や校歌、応援歌などを伝えていくことになります。   なんでこのタイミングで、母校明治の話になったかと言いますと、昨日12月3日がラグビー大学対抗戦早稲田戦に、気持ちよく勝利したことからです🎵対抗戦グループは現在は帝京の一強時代ですが、伝統の明治早稲田戦は、毎年12月の第一日曜に行われ、日本のラグビーの試合の中で有数の観客の多さです、熱い応援からの熱い熱闘が毎年繰り広げられます。ライバル同士の熱い戦い、昨日は気持ちよく大学の同期の連中と祝杯を上げました🎵   前書きが、ついつい熱くなり長くなってしまいました(失礼)   前回まで、日本のガラス食器メーカーのリーダーとして、業界をリードして来た佐々木硝子の誕生から、飛躍そして放漫経営からの倒産について、お話してきました。   今回からは、2002年(平成14年)と佐々木硝子株式会社と経営統合して、東洋佐々木ガラス株式会社になった、東洋ガラスについてお話していきます。   東洋ガラスの創始者の島田孫市は、日本の文明開化期の時代1878年(明治11年)明治政府が設立した、近代ガラス工業の礎となった「品川硝子製造所」に入局する。英国人技師J.スピートより最新の舶来吹きのガラス食器生産や板ガラス製造の指導を受け、後に全国へ広めることに努力。島田は生産技能だけでなく、当時秘伝の原料の調合法も学び、基礎知識を培った。   1888年(明治21年)4月大阪府西成郡川崎村(現・大阪市北区西天満)に島田硝子製造所 を創業、「舶来吹き」の技術を生かした食器やランプを生産、大変優れた品質で、業績を伸ばす。1893年(明治26年)、日本硝子の工場を買収して、着色ガラスや透明焼き付けガラスを開発して業績を伸ばし、1902年(明治35年)についに日本で初めて板ガラスの生産に成功した。その後、三菱財閥の岩崎弥之助の次男・俊弥の知遇を得て、これからは板ガラス事業が日本で重要な産業になると考えた岩崎と、板ガラスの生産技術を国内に確立したいという孫市の双方の考えの一致から、1906年(明治39年)12月岩崎を社長とし、孫市を副社長とする大阪島田硝子製造合資会社を設立、本格的な板ガラスの生産を開始した。しかし意見の違いから岩崎と袂を分かち、岩崎は尼崎に板ガラス専門の旭硝子を設立]、島田は1908年(明治41年)大阪市内の北同心町で再びガラス食器の生産を始め、1909年(明治42年)6月には西成郡鷺洲町海老江(現・大阪市福島区海老江)に、最新技術を取り入れた新工場を建設。特に窯は当時の最先端で、ドイツのものと比較しても劣らず、国内で特許を取得した、その後順調に業績を伸ばし、ガラス製造の発展に貢献した功績により藍綬褒章を受章した。   続く  

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  • 11月 27, 2023

    37|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について7

    皆さん、こんにちは🎵 佐々木硝子は、日本で初めてオートメーションのグラス製造を始め、大量生産大量消費の時流に合ったと同時に、ハードストロングHSグラスを開発発売して大きく飛躍し、高級グリスタルがアメリカ市場で人気を博して、昭和50年代は日本のガラス食器メーカーとして、業界のリーダーとしても大きく活躍した時代でした。   時の社長佐々木秀一氏は、1913年(大正2年)生、1937年(昭和12年)3月 - 慶應義塾大学経済学部卒後、合名会社佐々木硝子店無限責任社員、1947年(昭和22年)- 佐々木硝子株式会社取締役社長就任、1947年(昭和22年)には、弊社も加盟している業界団体、東京硝子製品卸商業協同組合理事長に就任、1968年(昭和43年) - 藍綬褒章受章、1973年(昭和48年)には、 東京商工会議所副会頭に就任した、東京商業活動調整協議会会長として、有楽町の阪急、西武、オ・プランタンの3店の出店調整問題を巧みに処理したといわれている、神田明神の総代など本業以外の役職が増え、本業への目が行き届かなくなり、関連会社への多額の債務保証や放漫経営、財テクの失敗などにより、坂を下るように業績は悪化していきました。東証1部上場企業でありながら息子である、佐々木宗和氏が社長になった際に、経営状況を知り愕然としたとの話があります。   佐々木宗和氏が、懸命の努力にも関わらず、債務金額が多大で債務免除などの方策も取りましたが、敵わず1999年(平成11年)に民事再生法を申請、倒産しました。当時の数字は資本金552,500万円、負債40,213百万円でした、東証一部上場企業の倒産ということで大きなニュースになりました、硝子食器業界においても、後でお話するカメイガラスが1997年(平成9年)に倒産したことと合わせて、グラスの供給不安、新企画の欠如、グラス業界のイメージ低下があり、これらがきっかけになって、2000年代に入ってからの、問屋の倒産・廃業に繋がるなど大きな影響がでました。   幸いなことに、日本最大の容器包装製造をコアとした事業を行っている、東洋製缶グループの一員でガラス瓶などを製造している、東洋ガラスのハウスウェアー部門と2002年(平成14年)と佐々木硝子株式会社は統合して、東洋佐々木ガラス株式会社になり新たなスタートになりました。 東洋佐々木ガラスについては、次回お話させていただきます。  

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  • 11月 20, 2023

    36|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について6

    皆さん、こんにちは🎵 先週12日は長男の結婚式でした、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は2男3女の5人の子持ち親父です、この結婚式で4人片付き(笑)残るは末娘一人になりました、もう少し親の役割を頑張ります♪   さて、佐々木硝子は、長らく日本のグラスマーケットのリーダーとして活躍されていました、特に日本で初めて導入したオートメーションによる大量生産、業務用にたくさんの皆さんが使っているハードストロングHS強化ガラスは、日本のグラスマーケットを大きく変えていきました。   私は実は、佐々木硝子のクリスタル製造に昔から注目しておりました、オートメーションにより生産を墨田工場から、千葉八千代工場に移設して、墨田工場はクリスタルの生産拠点として数々の銘商品を開発生産販売しておりました。 クリスタルグラスと、普通のソーダグラスの違いについては後日詳しくお話いたしますので、簡単に説明しますと、クリスタルは透明度が高く重量感があり、高級なグラスのイメージです。当時HOYAクリスタルとSASAKIクリスタルが日本だけでなく、アメリカや海外でも日本の高級クリスタルとして販売されていました。 佐々木硝子は、アメリカマンハッタンのど真ん中に事務所を構えて、ブルーミングデール、メイシィなどの高級百貨店にSASAKIクリスタルコーナーをどーんと構えて、高級ブランドとしてフランスのバカラ、イギリスのウォーターフォード、アメリカのMIKASAブランドと並んで、アメリカ人の憧れのブランドとして一世を風靡しました。私が初めてニューヨークに1995年に行ったときに見た、ブルーミングデールのSASAKIクリスタルコーナーの、高級イメージと豪華なディスプレイは忘れられません。   私が一時、アメリカ軍のPX向けのビジネスをしていた時に、ほとんどのアメリカ兵たちは佐々木クリスタルを知っていたし、憧れのアイテムとしてクリスマスプレゼントに使っていました。   その代表作がロビンです、ワイングラスの足の部分に鳥のイメージを創作した逸品です、このデザインシリーズは、ワイングラスだけでなく、キャンドルスタンドやディナーベルなどディナーウェア以外のアイテムにラインナップを広げていきました。その後、スズランシリーズ、ブルーのステムのパリスなど、メイドイン東京のハンドメイドクリスタルがアメリカマーケットにどんどん売れて行った時代でした、これらの収益が佐々木硝子の経営に大きなプラスになったと想像されます。   これらの商品は、当時の日本のマーケットではギフトに一部使われる程度で、主流ではありませんでした、日本のライフスタイルはいわゆるコップ、タンブラーを生活様式の中で使われることがほとんで、今と違いワインも限られた人が飲む少数派でした、その結果ワイングラスのようなステムは長らく、日本のマーケットでは販売数が少なかったです、ところが欧米はワイングラスのようなステムが、生活の中で使われます。このマーケケットにチャレンジして成功を収めたのが、佐々木硝子でした。   今でも1980~90年代に造られたササキクリスタルの銘品の数々は、木本硝子にあります、どこかのタイミングで皆さんにお見せしようと考えています。  

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  • 11月 13, 2023

    35|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について5

    皆さん、こんにちは🎵 グラスが昭和30年代から機械によるオートメーションで生産されるようになり、爆発的な生産量を支えたのは、まさしく日本が政府の所得倍増計画、3種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)が家庭に普及して、給料も上がり生活の豊かさが実感できる、高度成長期の日本でした。   日本の人口を大きく上回る、グラスの生産を可能にしたもう一つの要因があります、大量生産大量消費の時代に伴って生まれた、マスメディアの広告と景品・販促品です。グラスにメーカーロゴやブランドロゴを印刷して、消費者に大々的に無料で配ったり、飲食店にビールや日本酒の販促用としてグラスをタダで膨大な量を配っていました。 キャラクターのついたグラスや、ロゴの入ったグラス貰っていましたよね、今でも安い居酒屋に行くとビールメーカーのついたグラスを見かけますね、メーカーから見ても安く大量に同じものを配れるのはメリットでもあり、各社がこぞってグラスを景品・販促品として使っていました。   これが又日本のグラス業界をゆがめることに繋がります‼   佐々木硝子の話からちょっとそれてしまって恐縮ですが、硝子屋親父の独り言ということでご容赦ください、時代背景と業界動向とリンクする話です。   1960~70~2000年代前半まで(私の感覚的な時代感です)のグラス生産量の半分以上は、これらのタダで配るグラスと言われています、その結果グラス、とくにコップはただでもらうものという習慣が根付いてしまい、お金を出して買うグラスは、特別なものしか買わないという流れになってしまいました。特別なグラスとは、クリスタルグラスや機械で造れないような薄いグラス、形状の変わったグラス、特殊な印刷加工や複合的な加工をしたグラス、当時は色のついたグラスたちです。いわゆる普通にコップと言われるグラスの販売が難しい時代でした、そんな難しい時代だったのでグラスに江戸切子を入れたり、機械では生産できない多色プリントしたり、デザインを工夫したり、アンバー色のグラスを作ったり、陶器の徳利やすき焼き鍋とセットを組んで販売したりして、私のおやじたちは頑張っていました、また、後でお話するコップでは無いグラス、お皿や小鉢、花瓶などを製造する工場やメーカーが出てきて、日本のグラスマーケットの新しい分野を切り開き、世界に発信していくことになります。   ここらで佐々木硝子の話に戻ります(笑) 千葉の八千代に工場を作ってから、徐々に墨田の東京工場からオートメーションの製造装置を移転させ、クリスタルグラスの製造に東京工場を特化させていきました。 このクリスタルグラス製造が佐々木硝子を大きく飛躍させる第2章に繋がります。  

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  • 11月 6, 2023

    34|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について4

    皆さん、こんにちは🎵 いつも拙い親父のブログを読んで頂きありがとうございます、また暖かいメッセージやコメントも頂き嬉しいです、ありがとうございます。何なりと、遠慮なくご意見などお知らせください。   さて、佐々木硝子ハードストロング口部強化グラスの紹介の中で、口部強化との比較のために、全面強化のご説明を致しました、全面強化のほうが割れにくく扱いやすいです、ただしグラスにちょっとした傷や外部からの力がかかると、車の窓ガラスのように細かい破片になって割れます、その時に爆発したような飛散するお話しましたが、補足が必要ではとご指摘を頂きました。   補足は、グラスにちょっとした傷や外部からの力がかかると割れるのではなく、ちょっとした傷などと急激な温度変化、ぶつけたりする外部の力が加わった時などの条件が重なった時、極稀に破損して細かい破片が飛び散ることがあります。また、極々稀なのですが、自然に突然割れることがあります、製造工程で混じった不純物とグラスの中に発生した応力によって発生します。製造工程の管理や工程の見直しなどによって改善されています、また強化グラスの製造方法が物理的に作られる製造方法から、新技法であるイオン交換による製造方法で製造されているグラスが増えてきています、このあたりの製造方法については、改めてお話していきたいと思います。   1957年(昭和32年)2月に佐々木硝子が日本で初めて、グラスを手造りでなく機械によるオートメーション生産を始めました、これによりグラス業界が大きく変化していくきっかけになりました、また時代背景は、日本経済が高度成長していくことと並行して、庶民の生活の豊かさが上がり、そして生活習慣が西洋化されることにより、家庭内でもグラスを使う機会が増え、グラスが爆発的大量に生産販売されていました。親父に言わせると、砂漠に水を撒くようにグラスが飛ぶように売れて、仕入れが足りないほどだったと、今では夢の夢物語のような時代でした(笑)   佐々木硝子は、墨田の東京工場では生産キャパが足りずに、千葉工場として千葉県八千代市に八千代工場を1963年(昭和38年)に新設しました、こちらにオートメーションの生産設備を新設し、最大生産時には東京と合わせて3台のオートメーションの機械でグラスを24時間製造していました。   一台の機械でグラス何個生産できると思います???     グラスの形・形状や生産状況にもよりますが、最大で1日10万個程度生産できるといわれております、それが佐々木硝子だけで3台の機械で造るので、1日30万個MAX、余談ですが後にオートメで生産を始めた他社の生産キャパをトータルすると、1日7~80万個、24時間稼働で年間2億5千万個と言う、なんと日本の人口を超えるグラスの生産量でした。これが様々な現象を引き起こしていきます。    

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  • 10月 30, 2023

    33|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について3

    こんにちは🎵前回までは石塚硝子/アデリアについてお話させていただきました。 今回からは佐々木硝子(当時)、現在の東洋佐々木ガラスについて、お話していきます。   佐々木硝子は、食器用ガラスメーカーの老舗で、食器用コップ類で業界トップでした。創業は工場でなく卸問屋として、1902年(明治35年)佐々木宗次郎が東京神田にランプ卸商佐々木宗次郎商店を創業しました。その後、親密なグラス工場から商品を仕入れ、全国各地に積極的に販売して業容を拡大していきました。 2代目の、佐々木秀一が1937年(昭和12年)3月に 慶應義塾大学経済学部して、家業の佐々木硝子店に入社しました、その後、戦前(時期は不明)に栃木県氏家に初めて自社の工場を設立したといわれています。1940年(昭和15年)後に特許を取得した、日本初のスクリーン印刷による加工生産を開始し、終戦後1947年(昭和22年)1月 佐々木硝子株式会社に改組し、ガラス食器の卸販売を東京都中央区日本橋馬喰町で始めた、1950年(昭和25年)9月 東京都墨田区に東京工場を建設し、自社としては本格的にガラス食器の人口吹製造、印刷加工をスタートさせました。 日本のグラス業界の大きなターニングポイントになった、東洋初のオートメーションタンブラー製造機械H-28マシンを1957年(昭和32年)2月に東京工場に設置した。これによりグラスがオートメーションで24時間生産され、均一で、ある意味品質も安定するグラスの製造がはじまり、その余波で数多く全国各地の手造り硝子工場が廃業、倒産の憂き目にあいました。 もう一つ特質すべき業界に大きな影響を与えたことがあります、1967年(昭和42年)に 食器用口部強化グラス「HS」ハードストロングの生産を開始したことです、グラスイコール割れやすい、扱いにくいという概念を拭い去る新商品でした、その後各社が同じような生産を始め、市場は過当競争になって行きました。 ちょっと先になりますが、後ほどグラスの製法/加工方法で、お話しますが、強化ガラスも世界的なものはグラス全体を強化した全面強化ガラスです、日本のみ口部強化という特殊なグラスが発売されています、簡単に説明しますと全面強化のほうが割れにくく扱いやすいです、ただしグラスにちょっとした傷や外部からの力がかかると、車の窓ガラスのように細かい破片になって割れます、その時に爆発したような飛散になり、当初けが人が出たため日本独自の基準となっているようです、海外では標準的な全面強化ガラスと日本のみの口部強化ガラス、海外のグラスが日本に入って来なくなるような、消費者保護を名目に、所謂非関税障壁として使われたのではと、私は素朴な疑問を持っております。 ハードストロングは凄い数を国内外で販売しており、飲食店の皆さんに佐々木ガラスのハードストロングと言えば通じる商品です。

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  • 10月 23, 2023

    32|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について2

    こんにちは🎵 前回に続いて石塚硝子の販売会社アデリアについてお話していきたいと思います、アデリアの名前の由来は、かつてNHKの番組であった「私の秘密」で、硝子発祥の地のひとつであるアデリア海にちなんで、番組メンバーによって名付けられたのだといわれております。。そこからブランドは展開を続けて、現在では50年以上も皆様に親しんでいただける存在になっています。   アデリアの扱うグラスは、親会社の石塚硝子の造るオートメーションのグラスだけでなく、同じく石塚硝子の瓶工場から作られる梅酒壜や密封容器などや、仕入れ商品として国内の手造りグラス工場から仕入れて販売しております。特に後述するカメイガラスが1997年(平成9年)に倒産廃業後には、グラスを扱う我々のような問屋や、小売店・百貨店などからの強い要望を受けて、カメイガラスが販売していた、国内の手造りグラス工場やドイツ・イタリア・フランス・チェコなどの、海外のガラスメーカーの商品を多数扱うようになり、グラスマーケットの拡大維持に高く貢献しております。   石塚硝子/アデリアとしての経営戦略・販売戦略の上でも、またグラスマーケット・お客様にとっても、賢明で素晴らしいご判断だったと私は思っております。 ありがとうございます♪   特に、青森県にある北洋硝子はカメイガラス時代にはほぼ100%、カメイガラスに販売しており、資本も人材も技術なども大きく依存しておりました。元々は地元青森で盛んな、漁業で使う硝子製の浮き球を造る工場でしたが、カメイガラスのアイデアと技術で、津軽びいどろブランドしてたくさんのグラスや花瓶、美術品を製造してきました。宙吹きと呼ばれる金型を使わず、職人の高い技術から作り出される花瓶などは、現在造ることの出来る職人はほぼいなくなってしまいました。現在は、スピン成形、圧迫、プレス、流し込みなどの製造技術で製造しており、とくに「スピン成形」は、金型を回した遠心力でガラスを形づくる成形法で、熱したガラスを最適な量・タイミングで金型に落とし込むのも、回すスピードを調整して美しい模様を描き出すのも、すべて一つひとつ職人が行う製造です。また津軽びいどろはカラー展開が豊富なため、ガラスの色(生地をつくる成分の配合)によって変わる膨張率や硬さにあわせて、同じサイズ”に揃えていくには、高い技術が必要です。   北洋硝子が、色ガラスの製造を始めたきっかけが、ある職人の思い付きです。青森にたくさんある海岸のなかで、一際美しい砂浜と緑豊かな自然が続く七里長浜。あるとき職人がふと思いついて、その七里長浜のひと握りの砂を原料として加えたところ、そのガラスは、えも言われぬ深みのある緑へと色を変えました。その温かい色合いは青森で、また日本各地で愛されるようになりました。   それから色づくりに本格的に取り組み始めます。当時は廃業するガラス工場/工房もたくさんあった頃。これまで他の工房がつくっていた美術品と「同じ色を再現してほしい」という依頼も舞い込むようになり、その一つひとつの微妙な違いを再現するなかで、今に続く多色多彩の商品展開になっています。   北洋硝子は現在アデリアと同じ、石塚硝子のグループ会社の一つになっております。  

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