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  • 10月 16, 2023

    31|グラスの歴史 日本のグラスメーカー、手造りグラス工場について1

    こんにちは🎵 前回までは、木本硝子100年近い歴史の中で歩んできたこと、チャレンジしてきたこと、そして乗り越えてきたことを私の個人的な考えで、お話させていただきました。 たくさんの皆さんの、アドバイスご指導ご協力が有って、木本硝子が残されております、これからも新しいチャレンジをチームとして、取り組んでまいりますので引き続き、よろしくご指導ご鞭撻をお願いいたします。   世界で初めて黒の江戸切子を開発してから、現在についてのチャレンジは又改めての機会にお話したいと思います。   日本のグラスメーカーさんについて、お話していきたいと思います。   グラスの歴史について、ご説明していたしましたが、グラスの製造は昭和30年代までは、昔ながらの手造り硝子製造法で造られており、都内にも数十軒のグラス工場がありました、アメリカのオーエンス社から、佐々木硝子が日産10万個のタンブラー製造が可能なH28マシンをアジアで初導入。安価で高品質のタンブラーの大量供給になり、それに伴い手造りグラス工場はどんどん潰れ廃業し、数軒のみになってしまいました。   先ずは、オートメーションで製作してグラスを作っている、作っていたけど現在は無くなってしまった会社について、お話していきたいと思います。   東証スタンダードに上場している石塚硝子は、2019年に創業200年を迎える老舗のガラスメーカーです。現在は硝子・グラスのみでなく紙容器、ペットボトルなど多方面の容器を製造しております。グラス食器関係の石塚硝子の商品は、100%子会社のアデリアを通じて国内には販売されておりますので、アデリアといった方が皆さんにはなじみやすい名前だと思います。   1819年(文政2年)、初代の石塚岩三郎が現在の岐阜県可児市土田でガラス製造を始め、 1850年(嘉永3)尾張藩主徳川慶勝公よりビードロ細工の注文を賜ったことから石塚硝子の歴史は始まっています。 その後、幾たびの工場の移転・拡大と共に硝子瓶の製造も始め、昭和30年代には近代的なオートメーションのグラス工場、硝子瓶工場を新設して事業を大きく拡大していきました。1962年(昭和37年)には、酒税法の改正を受け、世界で初めて梅びんを開発発売して、新しいマーケットとして爆発的に売れ、現在も梅の時期になると日本全国で梅瓶が販売されています。   居酒屋などで今も皆さんが良く見る、アルスターシリーズは1968年(昭和43年)発売のグラスです、いまでも人気でたくさん販売されています。   アデリアの歴史は次に続きます。  

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  • 10月 10, 2023

    30|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話13

    イオンや高島屋・小田急などの百貨店との取組の辞退、売上が1/5になって、社員スタッフも10数名から3人に、私が社長になって苦しかった時代でした、会社存続のための苦渋の選択は、長年一緒になって働いてくれた社員たちをリストラしなければならない苦悩、 家に帰れば5人の食べ盛りを抱え、嫁さんは毎日必死に動いているなか、一人で考え一人で悩み自分で判断した、リストラであり生き残り策でした。   赤字垂れ流しを止める、出血を止めて次の成長戦略を考える、人も金も時間もない中、このときは本当に苦しみました、いまでこそこう書くことが出来ますが、当時は多分かなり病んでいたと思います(笑)   この病んでいた私を救ってくれたのも友人たちでした、社長は泣き言は言えない、出来ない理由は必要なく問題課題を考えるもの、事業を縮小するリストラすることは、銀行や取引先には、なかなか思い切って言えない、そんな、にっちもさっちも行かない時に、仕事は全く関係ないテニスの仲間に、実はいましんどいんですと話したことが、気分転換と新しい発想になることのきっかけになりました、友人たちが何か提案やアドバイスをしてくれた訳では無いです、ただ私の悩んでいること悔やんでいることを聴いてもらっただけです、私の話を聞いてくれたことでたくさんの勇気と元気を貰いました。 この時に思いました、人に話すことがこんなに気持ち気分が変わるものかと。 精神的に、友人たちに助けてもらいました。 ありがとうございます♪   話は、ちょっと戻って百貨店との取組を辞退した中で、なぜ三越・伊勢丹との取り組みが継続できたのか?? 伊勢丹は、皆さんご存じの通り超体育会系の会社で、本店が新宿三丁目と新宿から遠いので、いかにしてお客様をお店に来てもらうか、商品MDや広告など先進的にチャレンジしています、三越は創業350年の老舗百貨店で、取り組み先様も各カテゴリーで老舗が多く、伝統と格式を重んじております、一方呉服屋から日本初の百貨店になり定価販売・掛売無しなど新しいチャレンジも進めています。   そんな2社から、木本硝子はグラスの商品開発や品揃え等ご相談を頂き、それを真摯に提案してきました。それが木本硝子の次につながりました、伊勢丹・三越のアドバイス・アイデアによる新商品開発、食器売り場で日本酒を試飲してトリプリングのライフスタイル提案をする業界初のチャレンジ、様々な人とのつながりの拡大やメディア掲載などにより、2008年に大幅にリストラして、売上も1/5、社員数1/6にした会社が生き残ることになりました、ありがとうございます。  

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  • 10月 2, 2023

    29|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話12

    こんにちは🎵 木本硝子の一年は10月1日からスタートします、2023年度の成績表(決算書)は、皆さんの子協力応援と社員メンバーの頑張りで、まぁまぁの結果になると思います、次のステージへのアクションがまだまだですが、一つの区切りになります。ありがとうございます♪   50代の若さと、グラスはすべてわかっているという根拠のない自信で、三越・伊勢丹・高島屋・東急・小田急さまなどの百貨店との取り組みを2000年ごろにスタートしました、それまでの木本硝子はイオン・松坂屋と地方百貨店数社との取引のみで、社員も数名の小さい会社が、社員数10数名に膨れ上がり、机もロッカーもパソコンなども急ごしらえで準備して、たくさんの取り組み先様との取引が始まりました。   結果的に、2008年までに三越・伊勢丹以外の百貨店は取り組みを辞退して、かかわった社員にも辛い思いをさせてしまいました、これが今でもトラウマになっています。   大きな原因は、私のマネージメント能力が無かったということです、まわりは社員の能力やタイミングが悪かったなどと言ってくれますが、私が判断して採用して事業を進めたのです。一にも二にも私が、プレイングマネージャータイプで、なんでも自分中心で考え動く、人に任せられず、組織の考えや実態、業務の範囲や責任範囲などが、決められず任せられず、結局何でもかんでも中途半端になり、社員のモチベーションも下がり、わずか数年の取り組みで、撤退することになりました。   経験不足知識不足世の中知らずが原因ですが、百貨店とイオンとのビジネススタイルの違いが分からず、シンプルに良い商品良い条件・商品開発で提案・商談を進めていましたが、百貨店は委託販売・販売員付き・什器負担などが必須条件で、グラス商品のカテゴリー提案では、最初から土俵が違いビジネスは成り立たなかったです。   人を使う難しさもありました、特に長年同じ取引先を担当しているスタッフは、取り組み先だけでなく、競合相手や仕入先との関係も深くなり、シンプルな競争ではない複合的な要因との戦いになります。 シンプル短絡的に考えて行動する私には、理解できず。しばしば口論になり、感情的なしこりも残ってしまいました。   時代がスタッグフレーション、デフレの世の中になり、流通構造が変わったこともありました、百貨店からスーパーへ、スーパーからユニクロのフリース・ダイソーの100円均一と商品を買う場所が変わり、流通業界も変わった言ったことは、前述(2023/8/21 23-グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話 6)ご参照ください。

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  • 9月 25, 2023

    28|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話11

    皆さん、こんにちは🎵 木本硝子のチャレンジと生き残りについて、成功事例内容を書き綴ってまいりましたが、これらのアクションは、経営計画・戦略や事前に予想して行動してきたものでは無いです‼   ただただ、会社が潰れたら、社員家族取り組み先様等などにご迷惑をかけることになる、それを回避するために、必死にもがき苦しみながら下した決断と、行動の結果の積み重ねの結果です。そのために、たくさんの皆さんのご支援とご指導を頂きました、ありがとうございます。   2000年代は、2000年に百貨店のそごうの破綻、西武百貨店、長崎屋など、その後マイカル、ダイエーと大手流通の経営破綻が続く時代でした。 百貨店の破綻、スーパーの破綻で大きな影響を受けるのが、商品を卸していた問屋になります、当時の私は未だ40代後半と若く将来に対するグラス業界の夢もあり、東京の硝子問屋8社で連絡組織を作り、情報共有・共同商品開発・取引ルールの透明化・課題解決の勉強会などを進めていました。これらを通じて、各社の経営トップとの交流・信頼関係から各社の取引先、経営状況、課題を話す機会が多かったです。 グラス業界の歴史や各工場や職人の状況、百貨店特有の委託販売や取引決定プロセスなど、木本硝子で知りえない内容をたくさん、勉強させていだたきました。   当時は、ヨーロッパ中のグラス工場を買い付けに回り、直接輸入してイオンをはじめ硝子問屋仲間の皆さんにもリーズナブルな価格で大量に販売しており、会社の売上も利益も伸び、たくさんの皆さんに商品開発を感謝され、グラスマーケットの次の時代は私が創り出すと天狗(笑)になっていた時代です。   そんな中、そごうさんなどの破綻で傷ついた仲間の問屋さんから相談いただきました、取引先・仕入れ先・社員を守るために得意先を引き継いでほしいと・・・ 後継者も無く、元々経営状態は厳しいので会社としてのM&A等は、弊社としては引き受けられないのですが、有力百貨店との取引が可能になるという状況に、50歳働き盛りでちよっと天狗になっていた私は、これは大きなチャンスと考えお話を受けることにしました。これが、直ぐにとんでもない危機的事態につながることを全く予想していませんでした。   これからの顛末は次回書き綴っていきます。 あくまでも私個人の感じた感想です、特定の個人・会社・組織についての事実・意見ではありませんので、ご留意ください。  

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  • 9月 19, 2023

    27|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話10

    皆さん、こんにちは🎵   木本硝子が厳しい環境の中で、現在も未だ(笑)生き延びていることに、大きな学びを頂いた取り組み先様がイオンさんです。   先ずは、お客様優先で価格や品質、タイミングなどを最適な条件で商品を販売しているので、商品の買い付けは基本的に自由競争です。もちろん取り組みなどによって左右されることはありますが、ライバルが業界の同業者であろうと、大手商社であろうと海外のメーカーであろうと、同じ条件であればお客様にメリットがある商品で買付して頂きました、たった数人の木本硝子でもお客様にメリットがある商品であれば、何億円もお取り組みができました、何回もお話している通り木本硝子はガラス食器の専門家であり、国内外のメーカーや職人たちと長年にわたり取り組んでいることで、取り組み先様の信頼が厚く、1990年代としては大胆な商品企画・パッケージ・価格戦略を取り組み先と考え提案して販売してきました。   商品のパッケージにバーコードがついていますね?こちらをお客様がお買い求めになると販売情報がイオンに集積されます、木本の提案した商品がどのくらい売れたのか、どのくらいの期間で売れたのかリアルタイムで判断できます、ガラス食器に業界やお客様の購買行動やライバル企業の動きを考え提案した商品が、カテゴリートップになった時の嬉しさは最高に楽しかったです、販売実績という数字を残せば信頼も頂き、次につながります。   今では当たり前になっているオンライン注文、EDIの取り組みを30年前から始めました、未だ時代の先端でノウハウも少なくお金もかかりましたが、社内のシステムなど整備して、商品情報マスターの整備、画像の整理、JANコードの設定などアナログの時代に先んじて導入したのもイオンさんの後押しからでした。   EDIの次はロジステック改革です、ロジステックは戦術用語で軍隊の補給や調達を効率的行うことで、単なる運送・倉庫の概念ではありません。朝6時にEDIデータ受信から、出荷まで6時間で対応する、商品の品切れはありえないです‼納品率という数字で管理されます、また納品時の検品はありません、そのかわり抜き打ち検品でデータと実際の納品の確認があり、当然差異があればイェローカード、最悪取引停止という日々の緊張ストレスは相当のものでした。これに対応するために調達・作業段取り・レイアウト・システム・人の管理など改善・又改善を進めることで体力がつきました、肉体的じゃないですよ(笑)会社の力です🎵   品質管理・コンプライアンス・環境負荷・労働環境など、今の時代では当たり前のことを20年も30年も前から気付かせていただき、木本硝子は対応することで自然に力と知恵がつき、現在も生き残っていることに繋がっています。   イオンとお世話になった皆さんには深く感謝いたします、ありがとうございます♪ お取り組みを2008年に辞退して15年たっておりますが、たまにご相談したり近況報告したり、年賀状のやり取りをさせていただいている先輩がたくさんおります。   ありがとうございます♪  

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  • 9月 12, 2023

    26|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話9

    皆さん、こんにちは🎵 実は8/14から9/2まで三週間、ニューヨーク・ペルー・ロンドン・パリと行って来ました、ペルーは夏休みを頂き子供のころから行きたかったマチュピチュとナスカ地上絵、リマ・クスコの街を楽しんで来ました、めちゃくちゃ楽しく刺激的でエキサイティングな時間でした、こちらのブログでもそのうち(笑)書いていきたいと思います。   ところで、私はFBを使って日々の活動や木本硝子の情報発信などを行っております、まだ友人になっていない方で繋がっても良いなぁと思っておられる方がおりましたら、木本誠一宛に友達申請とメッセージでブログから来ましたと一言コメントを入れてください、申請のみでメッセージが無いものは大変恐縮ですが、承認いたしかねますのでよろしくお願いいたします。 https://www.facebook.com/seiichi.kimoto.5   硝子食器だけを扱い少人数の木本硝子がなぜ残られたのか?私のチャレンジしてきたことについて、お話させていただきましたが、もう一つ大きなポイントがあります。   イオンとの取引から学んだことが大きいです、1960年代にドラッカーに経済の暗黒大陸と呼ばれていた流通が大きく変わっていきました。従来型の小売店、委託販売・場所貸・テナント化していく百貨店に対して、1990年代に大きく飛躍した日本のスーパーマーケット業界、店舗の大型化・多店舗化、大型ショッピングセンターの開業などが、大きく変わっていく真っただ中で木本硝子はもがく苦しみながらも、イオングループとの取引で大きく変わることができ、現在も生き残るきっかけになりした。   お客様のために最適な商品は??価格はロットはタイミングはなどが基本の考えで、そのための調達については、条件を満たせばオープン競争でした。   ライバルは同業の問屋であり、国内外のメーカーやグローバルな大手商社など多種多様でした、そのなかで生き残ったのはガラス食器という小さいマーケットに、徹底的に特化・深化して他社の出来ないことだけを提案し続けてきたことです。   こちらについては過去のブログでお話してきましたので、次回からはイオンとのお取り組みで学んだことをお話していきたいと思います。  

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  • 9月 4, 2023

    25|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話8

    テーマと内容がグラスから離れすぎ、ちょっと違うのではとコメントを頂きました。 グラスの歴史や製造方法などもお知らせしていきますが、グラスを取り巻く環境も大切だと考えております。製造から流通、消費までは一つの流れです。   流通の変化について、教科書的でなく私が実際にビジネスを通じて感じたことをもう少し書きますので、よろしくお願いいたします。   百貨店から量販店、ショッピングモールへと変わっていく中でグラス業界に大きな影響を与えたのが、ホームファッションというカテゴリーが新しく出てきたことです。 いまでこそ、ホームファッション、ホームファニシングで何となく、ああニトリか無印のあのコーナーと思い浮かべられますが、登場時はイメージが解からずでした。   ホームファッションとは、1990年代に欧米で生まれた考え方で、家具やインテリア、カーテン、室内装飾品から照明、生活家電(白物家電)等の家の中で使うものも(衣類の)ファッションのようにコーデネートするという考え方です。   食器売り場は和陶器、洋陶器、グラス、カトラリー、箸、漆器とそれぞれ分かれ、同じようにキッチン売り場もインテリア売り場も素材別か用途別に分かれていました、それを 洋服ファッションの着こなしのように、一つのテーマや好みの色、デザインテイストで家庭の中にあるものをまとめたコーデネートした売り場で、ライフスタイル提案型ともいえるスタイルです。   こちらのトレンドがグラスにも影響して、2000年ごろのイオンの売り場には、グラスだけで500種類も、色別、テイスト別など膨大なアイテム数が並べられていました。それまでは、せいぜい50種類程度のグラスの品揃えが大きく増え、売り場面積も食器売り場で100坪以上と、今の10坪ほどの売り場とは考えられないスペースとアイテム数でした。 このトレンドがグラスだけ扱っている木本硝子に大きなチャンスを与えてくれたことになります。   木本硝子は僅か数人の会社ですが、3代にわたりグラスだけを扱ってきました、国内の工場、メーカー、職人だけでなく、ヨーロッパなどのメーカーの商品も扱い、1990年ごろからはフランクフルト、パリ、ミラノなどの国際的な展示会に買い付けに行き、メーカーとも直接交渉しておりました。   それを生かして、500アイテムものテイスト別のアイテムを提案して、陶器や他の素材とコーデネートして売り場づくりをしていきました、この経験が木本硝子を問屋からプロデューサーに代わることのきっかけになりました。   様々なメーカーの商品が取り扱うことができます、それらを使い職人たちに付加価値をつけてもらい、コーデネートやデザイントレンドに合わせてアイテム開発していく、グラス製造・加工・調達のノウハウの蓄積、売上をバックとした取り組み先との信頼の醸造が進みました。   イオンとの取り組みからたくさん学んだことの一つです。 ありがとうございます♪  

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  • 8月 28, 2023

    24|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話7

    まずこちらの図表を見てください。 小売業の業態はかつては、百貨店、スーパーと街の小売店ぐらいでしたが、1990年代に入ると、ホームセンター、ドラッグストア、コンビニなどが出現し、ユニクロなどの専門店の台頭とIKEA・ニトリ・コストコなど新業態、さらには2010年以降にECビジネスが急拡大していきます。   先ず、百貨店全盛から何故スーパー・量販店の時代に変わったか/?? モータリゼーションによるところが、大きいです。各家庭、地方によっては一人一台の車社会が、生活様式を変えていきました。スーパーが大型店化しさらにモール・ショッピングセンターになり、広大な駐車場と一日過ごせる店舗、飲食店、フードコート、映画館やスーパー銭湯、スポーツクラブまで併設しているところもあります。 それに対して百貨店は駅前の一等地にあるため、道も狭く混雑するし、駐車場も大きくなく、入り辛く停め辛い、女性ドライバーや高齢者ドライバーに嫌われます。東京大阪のような駅前ターミナルで、一日の乗降客数が何十万人もいるところは、未だお客様が入りますが、地方の百貨店はよっぽど特徴を出すか、しっかりした顧客管理・外商活動をしているところ以外は厳しい状況です。   イオン・セブンアイが大型ショッピングセンターを全国に出店したことで、駅前の地方百貨店が閉店し、商店街がシャッター通りになる例は枚挙に暇がないほどで、ここに書き記すと寂しくなるので止めます。   百貨店から大型スーパーになり、そのイオン・セブンアイも苦しんでいる原因の一つが、私は家族・親戚等との付き合い方が変わり、その結果ギフトマーケットが変わったことがあると考えております。   1990年代ごろまでは、親戚のおばさんおじさんの数はたくさんいたし、付き合いも親密でした。結婚式、出産、七五三、入学、卒業、就職など人生の節目節目の行事で、たくさんの親戚や関係者が集まり、ご祝儀を包んで祝宴で盛り上がり、お返しの引き出物を重たい思いをして持ち帰っていました。   その引き出物がタオルであり、陶器でありグラスであり、砂糖や樫節もありました。中心価格帯は3000~10000円くらいで、年間膨大なマーケットになり、作るメーカー・問屋も、売る百貨店・スーパー、ギフト専門店も、この大きなマーケットに依存しておりました。 これが社会様式の変化と、親戚の付き合い方で大きく変わり、激減していきました。 せいぜい集まっても祖父祖母と兄弟、子供たちぐらいで単価は上がっても、圧倒的な数量やトータル金額ベースが減りました、皆さんがご出席した結婚式などを思い出してください。 お中元お歳暮も徐々に少なくなり、フォーマルギフトからカジュアルなパーソナルギフトにギフトマーケットは変わって行きました。   こちらの変化が、私は小売業の業態変化に多きく影響したと考えています。

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  • 8月 21, 2023

    23|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話6

    皆さん、こんにちは🎵   先週はお盆休みでこちらのブログもお休みさせていただきました、木本家は先祖を大切にしております。ご先祖様がいて我々がいる、そしてそれを継続させていくことが我々の責務と考えております。 お正月元旦は家族で新年の挨拶・雑煮を食べて、先ずは墓参りご先祖さまにも新年のご挨拶と一年の家族の健康と商売繁盛をお願いします。春のお彼岸、秋のお彼岸、そしてお盆、東京のお盆は新でやるために7月にお迎えと送りに行きます、そしてお墓のある茨城は旧なので8月にもお参りに行きます、子供たちも孫たちも連れて行って先祖様へのお礼とご挨拶を欠かせません。   前回のブログでは、木本硝子が百貨店問屋からスーパー問屋への変革のスタートについて書きました、これからは1990年代から2020年までの①流通の変遷 百貨店から量販店、ネットビジネスへの小売業の変革 ②世界のガラスメーカー、日本のガラスメーカーの変遷 ③流通の変革とメーカーを取り巻く環境の激変の中で生き残るために、変態チャレンジをした木本硝子のビジネスモデルの変化 の3つに分けて、皆さんにお知らせしていこうと考えております。   先ず①の小売業の変遷から入りたいと思います。昭和30年代に生まれた私は、初代の爺さんに連れられて三越日本橋に行き、食堂でお子様ランチを食べ、屋上の遊園地で遊び、おもちゃ売り場で並んだおもちゃをずっと見比べ、地下のお菓子売場で回っているお菓子を好きなだけ買ってもらった、楽しい思い出そして三越に行くことは、特別な買い物や晴れの日に行くところと思っていました。   百貨店の売り上げも、ピークだった1991年は9兆7000億円あり、店舗も268店あり、各地方には多数の地方百貨店がありました。当時のスーパーと言えば、ダイエー、ジャスコ、ヨーカ堂などと共に各地に地方スーパーが多数生まれましたが、スーと生まれてパーと消えるという厳しい経営環境で、安かろう悪かろうのイメージがまだまだ強く、大手メーカーが百貨店に遠慮して、商品を販売制限したり、商品を変え百貨店商品とスーパー商品と別ブランドや別品質で販売していました。   当時の松下電器産業(現パナソニック)とダイエー(現イオン)とで勃発した、ダイエー・松下戦争は、1964年(昭和39年)から30年に渡って、ダイエーと松下電器産業(との間で商品の価格販売競争をきっかけに起きた対立である。松下幸之助は「定価販売(小売希望価格)でメーカー・小売りが適正利潤を上げることが社会の繁栄につながる」と定価販売を進めていたが、ダイエー創業者の中内㓛は「いくらで売ろうともダイエーの勝手で、メーカーには文句を一言も言わせない」という主張を貫き、これが発端でダイエーは自社開発商品PBのテレビを作りやすく販売した、その後両者の死後に和解して現在の販売体制になりました。   私は流通の覇者を決める戦いだったと思います、「良い品をどんどん安く消費者に提供する」というダイエー中内さんの考えはスーパーのロジックそのものであり、既存のメーカーや百貨店の定価販売でしっかりしたものを売るというロジックとは相いれないものでした。   ところが、モータリゼーション、商店街や駅前の衰退、消費構造の変化やコンビニ(1974年セブンイレブン一号店が開店)して、お客様の買い物の場が大きく変わって行きました。1990~2000年は未だECビジネスは勃興しておりません。  続く  

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