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社長ブログ

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  • 8月 7, 2023

    22|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話5

    こんにちは、私はかなりへそ曲がりの性格で、他の人と同じことを集団ですることが苦手です。小学校のころは巨人・大鵬・卵焼きと人気の時代でした、クラス全員が巨人の帽子をかぶって遠足などに行くときも、私だけ別の帽子をかぶって行き、他の子供たちにいじめられ(笑)先生にも協調性が無い異常傾向といじめられておりました。   そんなときも親父はいつも笑って、私をかばってくれました。彼は戦中派で全員玉砕、火の玉決戦と太平洋戦争中は、国民みんな同じ行動をとるのを冷ややかな視線で見ていたようです、戦時中なので行動を変えることはできなかったようですが、やはり異端児だったようですね(笑)、今の時代で言うと赤信号みんなで渡れば怖くない、茹でガエルのことばになると思います。   そんな少年時代を過ごしていたので、他の人と違うことをすることに違和感はないですし、すぐに動く行動することは厭わないです。いまは変態と称しておりますが、胸を張って変態を楽しんでおります。また変態は変態の友を呼び更に変態が進化していきます。   変態は性的な行動ではありませんよ(笑)ダーウィンの進化論でも、大きく強いものが残るのではなく、環境変化に対応できる、変態できるものが生き残ると説いております。正しく、今の時代も同じです、時代の変化をかぎ取り、即行動する、失敗や失敗しそうになったら即ストップするか、方向転換します、失敗しても経験・コンテンツは残ります。やるかやらないかはゼロとイチではありません、ゼロと無限大の差と私は思っています。   木本硝子に入った当時は、百貨店全盛時代でメーカーも問屋もみんな百貨店に目が向いていました、私が当時スーパーのジャスコ(現在のイオン)と取引を始めたときに、業界のみんなは木本硝子も息子が入って、スーパーと取引を始めるなんて、親父の時代はしっかりしていたのに、木本硝子も落ちぶれたなと冷笑していました。   時代は変わります、お客様も生産体系も変われば当然流通も変わります、だれもやらないマーケットに他に先んじてチャレンジしたおかげで、現在も木本硝子は生き残ってます。  

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  • 7月 31, 2023

    21|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話4

    こんにちは、ここ数回は問屋の機能についての教科書的な説明をさせていだたきました、50年近く前に学んだマーケティングでも、問屋の機能についてはディスカッションしました。 もちろん当時に比較して、飛躍的な技術の進歩や新たに出現したWEBやNET、テクノロジーや工夫によって大きく実務内容は変わりましたが、原理原則は同じです。   木本硝子が幾多の環境変化の中で、たまたま生き残ったのはまじめな一本気と、変わること変えることを厭わない変態的なチャレンジ精神と、周りのたくさんの皆さんに助けられて残ったのだと思います。   まじめさは不器用さでもあると思いますが、祖父も親父もグラスだけ扱え、硝子以外は扱うな、問屋であれと常々言っておりました。バブルの時代でも、地上げや投資の話には、一切耳を貸さず、まじめに(不器用に)グラス一本で地道に問屋として、当時の取り組み先様である松坂屋百貨店とお取り組みをさせていただいておりました、小さい会社でありながら、松坂屋百貨店と継続的に取り組んでいたことで、仕入れ先様である手造り硝子工場、江戸切子職人、大手硝子メーカーにも信頼を頂き、松坂屋様にもグラスなら木本硝子だなと信頼を頂き様々なご相談や企画を頂きました、各仕入れ先様には、現在も長いお取り組みを続けさせていだたいております。   問屋が大きくなるには、 ①扱い品種を広げ-グラス以外の食器である陶器・漆器・箸などを扱い品種の拡大による売り上げ拡大 ②営業エリアの拡大-東京だけでなく、大阪や地方に販売エリアを広げる ③小売に参入する ④メーカーに参入する などの方法がありますが、木本硝子は上記のどれでもなく、規模の拡大ではなく、実直にグラスのみ扱い、問屋に特化してきました。   それが結果的に、ランチェスターの法則の中でいうところの、負け犬の戦略でした。大きい会社は資本と資源ものを言わせてマーケットをどんどん取って行きます、それに反して小さい会社は、強者の戦略は正反対に、マーケット(対象)を絞り、目的を明確にして、得意分野でダントツ1位を目指し生き残ることでした。

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  • 7月 24, 2023

    20|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話3

    問屋がなぜ残っているのか?木本硝子はなぜ生き残ったのか? 問屋の機能の面から皆さんにお伝えしていきます。 今回は前回の一つ目の機能「需要と供給の調整」に続き、二つ目以降の機能です。   ②物流の効率化 メーカー・小売業間における物流の効率化は問屋が担っています。 卸売業がない場合、商品を製造したメーカーは各々が小売業を回り、自社の商品を納入する必要がある。しかし、小売業の店舗が一つのメーカーに求める商品の数量は限られているため、少量の配送を数多くの店舗に対して行なう必要が出てくる。配送効率の悪さは明らかです。卸売業者が物流を担うことで、複数メーカーの商品をまとめて小売業に届けられるため、物流面が効率化されています。   ③多様な商品の取り扱い 3つ目は、複数メーカーの商品をまとめて扱うことで、多様な商品の提案が可能となる点になります、各メーカーからそれぞれ商品提案を受けても、小売業としては売場全体の最適化を考える必要があるため、問屋/卸売業が複数メーカーの商品を取りまとめることで、小売に対して魅力的な提案が可能となります、木本硝子も多数のメーカーとの取り組みで、販売先である小売店に対してベストの品ぞろえ提案をしておりました。 小売業としては、価格交渉だけを考えれば各メーカーと直接やり取りをするほうが有利に進められる。しかし、メーカー・商品ごとに交渉する手間を考えれば現実的ではない。卸売業が仲介することでまとめて交渉が可能となり、小売業にとっても効率が良いです。   ④店頭の販売促進サポート 複数メーカーの多様な商品を取りまとめる卸売業だからこそ、店頭においても魅力的な提案が可能となる。例えば、ジャンルの異なるメーカーの商品を並べて陳列することで、ついで買いを促したり、店頭の販売促進サポートを通じて得た消費者に関する情報は、貴重なマーケティング情報となる。最新のトレンドや消費者動向をメーカーに還元することで、より良いモノづくりにも貢献している。   ⑤円滑な代金回収 メーカーが商品を生産してから消費者に届くまでには、長い期間を要する。その間にもメーカーは、生産ロットや多数のアイテムを抱えているため在庫リスクも抱える、また次の商品の開発や生産を進める必要があるため、どのタイミングで販売代金の回収ができるかは重要な問題です。 卸売業が仲介することで、メーカーは卸売業者に納めた時点で代金が回収できるため、新たな投資や生産へのスムーズな資金の流れが可能となる。卸売業は金融面においても、重要な役割を果たしています。    

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  • 7月 18, 2023

    19|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話2

    木本硝子は、私木本誠一で三代目のガラス食器専門の問屋です。 問屋っていうと何か古めかしくて、中間搾取するようなマイナスイメージを持つ方がおられると思います。   問屋が要らない、問屋不要論が論じられていたのは、1960年代ごろからの流通革命により大量生産、大量消費、チェーン店化が進められてきた。このことからメーカーから小売店に直接商品を搬送するという事が可能となり、中間に存在する問屋は無用になるという考え方でした。だが実際には問屋が無くなる事で小売店が不利な状態になったり、問屋の方も新たな経営戦略やシステム・物流(ロジステック)構築を行っているため、問屋無用論が唱えられてから60年以上が経った現在でも問屋(商社・卸業者)は存在しています。   ちなみに私が学んだ明治大学商学部徳永ゼミは、まさしくマーケティング本家のゼミであり、徳永先生の下でマーケティングを学んだことが、現在の木本硝子に繋がっております。   ちょっと、学問的になりますが、では、なぜ今も問屋が残っているのか? 私は問屋という業態よりも、問屋が持つ機能に注目しております、 問屋とは、メーカーと小売業の間に位置し、メーカーより商品を仕入れ、小売業へと商品を提供しますそのための機能は大きく五つあります。   ①需要と供給の調整 メーカーと小売業の間に立ち、需要と供給を調整する役割です。 メーカーにとっては、同じ商品を一度にまとめて製造するのが最も効率的なため、基本的には大量受注を希望する。しかし、小売業にとっては一度に販売できる量は限られているため、大量に発注すると過剰在庫・不良在庫のリスクが高くなってしまう。   卸売業が複数の小売業の注文を取りまとめることで、メーカーへの発注量を増やし、両者にとっての最適な注文量になるよう調整しています。   以下次回に続きます。  

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  • 7月 10, 2023

    18|グラスの歴史 木本硝子のチャレンジとグラス製造のお話1

    こんにちは、皆さんがこちらのブログを読まれているときは、北海道の自然、食、酒/ワインを楽しんでいると思います。北海道から帰ったら、7月末は東南アジア、8月中旬からはNYから南米・ヨーロッパと世界一周に出かけます、こちらのレポートも楽しみにしてくださいね。   さて、世界と日本の歴史製造について、書き綴ってきましたが、昭和30年代にはいると、グラスの製造方法が手造りからオートメーションになり、劇的な数量の製造と均一な品質での生産が可能になりました、これに伴い大量消費が可能になり、一般家庭でもグラスはたくさん使われ、また贈答マーケットとして結婚式の引き出物や内祝いなどでグラスは好んで使われました。グラスだけでなく車や家電、ビール・飲料マーケットも大量生産にと大量消費のため、新聞ラジオだけでなく当時から放映されたテレビを通じ販売促進のための広告が掲載・放映され、販売促進ツールとしてキャンペーンや懸賞でグラスが大量に使われ始めました、飲食店で使われるビール用のグラスお酒用のグラスが、大手ビールメーカーや清酒メーカー飲料メーカーから、販促用として無償もしくはタダ同然で大量に配布されました。グラスマーケットは数量ベースでも金額ベースでも成長していきました。 一方、大手メーカーによる大量生産、オートメーションにより一点当たりの販売価格は急激に低下する、スーパーマーケットの出現により、同じものが大量に売れる均一マーケットの急拡大などにより、市場環境は大きく変わっていきました、昭和50年以降になると、大変残念なことに環境変化に対応できなかった、多数在った手造り硝子工場やガラス職人などなど、そして問屋なども倒産廃業や統合などで大きく数を減らしていきました。   木本硝子の現社長である木本誠一、私が生まれたのが昭和31年1956年です。大量生産が始まり業界の大変革時に生まれたのも、何かの縁ですね(笑)   そこで、今回からのテーマは、木本硝子の歴史を振り返りながら、周りを取り巻く環境変化、木本硝子の生き残るための変態/チャレンジと、お取り組み先様であるメーカー、工場、江戸切子職人たちについて、書き綴っていきたいと思います。

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  • 7月 3, 2023

    17|グラスの歴史 日本のグラス製造その10

    毎日暑い日が続いておりますね、先月も6月とは思えない暑さに加えて、異常気象による大雨が多発しました、被害にあわれた皆様に心よりお悔やみを申し上げますとともに、一日も早い復興を祈念しております。   日本のガラス製造について、こちらに述べてきましたが、いよいよ木本硝子の活躍する時代に入ってきました。木本硝子は昭和6年に私の祖父木本艶が相澤賢治氏と合名会社相沢商店を設立し、百貨店専門納入業者として発足いたしました。同じグラス業界の吉沼硝子様とは、祖母同士が従兄弟関係ということで、同じガラス業界で同じ市場に販売するのではなく、吉沼硝子様の業務用市場と相澤商店の小売市場とに分けて販売することで設立いたしました。 戦災のため相澤氏が無くなったため昭和20年に同店を解散、昭和22年に木本商店として再発足し、昭和34年に木本硝子株式会社に組織を変更して、現在に至ります。   設立当時の話を死んだ2代目木本清からよく聞いていたことは、問屋の木本硝子が市場のニーズや工場の造るグラスの情報、競合する商品をよく研究し、自分で売れるグラスの企画をして、下町の手造り硝子工場や江戸切子職人たちにグラスや江戸切子を作ってもらい、自分たちで販売価格や卸先・卸単価を決めていたと、そして売れても自分の責任、売れなくて在庫借金の山になっても自分の責任と常々言っておりました。 そんな姿を見て育ったので、大学を出て三菱電機に入ったものの自分で決められないもどかしさで(新人社員が、決められるわけないですよね(笑))、数年で辞めてしまい木本硝子に入ったことに繋がります。   終戦後の混乱の中でも、東京都内や各地に手造りグラス硝子工場が多数あり、その数は100社近いとの説もあります、朝鮮戦争や戦後復興により日本の景気は順調によくなり、それと共に生活も少しずつ豊かになり、生活様式も和式から洋風へと変化していきました。その結果、グラスの需要は年ごとに大きくなり、昭和30年前後は、手造り硝子工場全盛の時代になりました。  

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  • 6月 26, 2023

    16|グラスの歴史 日本のグラス製造その9

    明治時代のガラス製造のマーケットは、当時国内で急速に普及した石油ランプでした。明治20~30年にかけて生活の必需品となり、最盛期を迎えています、ガラス製のため油の残量がすぐにわかることや、壊れやすいため買い替え需要が絶えることなく続きました。   また明治後期から大正時代には、更にガラス産業がさらに飛躍しました、一つは、板ガラスです、国内生産が可能になり生産額が急増していきました、現在もガラスの生産精度が低かったため波打つような板ガラスが、古民家や商館などに見られます、アンティークとしても人気があります。   もう一つは、皆さんが日々使っているガラス瓶です、製壜製造の機械が導入され急速に普及していきました。さらに第一次世界大戦の勃発で、日本のガラスは世界市場にも数多く輸出されるようになり、ガラス製造技術の革新により品質も向上し、さらに輸出が増えるという好循環で日本のガラス産業は発達していきました。   大正期の氷カップにみられる、色ガラスを使った被せや色ぼかし、糸巻き、かきあげ、あぶり出しといった、様々な装飾技術の革新による新技術で新商品が流行していくのは、日本特有の現象であった。カラフルな食器でかつ手ごろな価格で造られた、グラスは庶民の生活の中で使われ、グラスが生活のなかの雑器として極めて身近な存在になりました。   美術の世界にもガラスが広がり始め、「美術工芸品」としての「ガラス」を作り出す風潮が出てきた。昭和初期には、「色ガラス」の岩田籐七(岩田工芸硝子)や「クリスタル」の各務鉱三(カガミクリスタル)らが日本のガラス工芸確立のために活躍した。百貨店の家庭用品売場で販売や催事が行われていたものが、美術工芸売り場などで展開されるようになっていきました。その後、先人たちの努力により、美術工芸品として市民権を得て、更に個性豊かな多くの後継者が登場し、第二次大戦後の新世代へと引き継がれていきました。     大正期の窓ガラス 明治期のビール瓶 昭和初期のかき氷グラス

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  • 6月 19, 2023

    15|グラスの歴史 日本のグラス製造その8

    明治時代に入り、産業育成と国力強化のため各地に官製の工場が作られ、海外から技術の導入や技術者を呼び寄せて、近代国家、近代産業へと日本全体が変革していきました。   硝子産業についても、明治9年に官営の品川硝子製造所が作られ、近代技術を入れ、新しいガラスなどを作り出していたが、経営的には民間の硝子工場との価格競争に敗れ、明治18年(1885年)には、タダ同然で民間に払い下げることになりました。   払下げを受けた西村勝三氏は、渡欧して各国の硝子工場を視察し、ドイツのシーメンス式製壜工場の製造法に感銘し、技術者をドイツに派遣し窯とガラス製法を習得させ、ドイツから吹き込み型や機械を買い求め、1889年にはルツボ10本の窯でビール瓶の製造を始めた、それまでは麦酒メーカーが居酒屋に貼ってあるポスターに見られるように、陶器製の瓶にビールを入れて販売されていた、明治の時代のガラス工業の発展と我々が毎日楽しむビールとは、こんなに近い関係がありました。 もっとも各社が多数ビール瓶を作ったため生産過剰による在庫増加、原料価格の高騰、経済不況のビール需要の減少のため、西村氏の工場は1892年には解散してしまいました。   明治中期には、大阪、川崎、東京芝また福島県小名浜などに硝子工場が次々に作られ、板ガラス、硝子食器、ガラス瓶などを製造しておりましたが、技術の未熟、品質、価格、供給過剰により長続きするところは、残念ながら少なかった。 ただ、これらの工場で働き技術を磨いた職人たちが、のちに独立し熟練の技術の伝承により、日本の硝子産業の基礎になったことは間違いないです。   明治中後期には、東京で50社、大阪で100社、名古屋で30数社の硝子工場が稼働していたといわれています、明治後期は硝子工場の盛衰消長の激しい時代でした。 明治後期から大正時代には、硝子工場の激増と、技術の進歩そして硝子工業も合大きく発展していきました。       工部省品川硝子製造所 | 博物館明治村

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  • 6月 12, 2023

    14|グラスの歴史 日本のグラス製造その7

    皆さん、こんにちは! 前週の土曜日曜は、木本硝子のある地元の鳥越神社の祭りでした、コロナで中止休止縮小の3年間でしたが、今年は4年ぶりに都内最大といわれる千貫神輿をみんなで争うように担ぎ、祭りは最高に盛り上がりました。 町内を流れるお囃子の音色と、神輿の担ぎ手の元気の掛け声と鳥越一本締めと、街に木本硝子に元気が戻ってきました。     明治6年(1873)、三条実美太政大臣の家臣・村井三四之助が家令の丹羽正庸とともに、 東京・品川の目黒川のほとりにガラス製造の「興業社」を創立した。これが、日本で初の西 洋式ガラス製造工場(ほぼ現在の製法・工場と同じタイプ)で、機械、器具をはじめとして坩堝の粘土、築炉用の耐火煉瓦など、主要な材料は英国から取り寄せ、技術指導員として同じ英国からトーマス・ウオルトンを招き、 坩堝造りから始まった。工員は東京や大阪のガラス職人を高給で雇い入れ、坩堝の完成を待って板ガラスの製造を計画したが、完全な製品を製造するまでには至らなかった。   江戸時代から明治の時代に代わって、国は富国強兵・殖産興業に力を入れ、日本国の発展を進めていきました。明治9年(1876)4月、 経営不振に陥っていた興業社を買収して、官営の「品川硝子製作所」として創立し、翌10年(1877)官制改正により「品川工作分局」にお改称し、11月には操業を開始した。 最初の製品は舷灯用の紅色ガラスで、佐賀藩のガラス工場から来た藤山種広が製造を担当した。明治12年(1879)4月には食器、その他日用品のガラス器の製造を始め、12月には化学実験所を設けて鉛丹と炭酸カリウム製造から、クリスタルグラスの製造も始め、翌年5月から販売するようになった。明治15年5月には英国の技師エマニュエル・ホープトマンを雇用、イギリスの切子加工の技術が日本人に伝えられた。    明治初期の江戸切子(不詳)

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